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1868年1月14日(慶応3年12月20日)

近藤勇・沖田総司、戦線を離脱して下阪

慶応3年12月20日(1868年1日14日)、御陵衛士生き残りの襲撃により負傷した近藤勇に、会津より見舞金20両が下されました(『金銀出入帳』)。同日、近藤は「病人惣司(沖田総司)」とともに伏見の新選組を離れ、幕医松本良順による治療のために大阪に下り、大阪町奉行屋敷に入りました(慶応4年2月1日付け井上松五郎宛佐藤彦五郎書簡)。このとき、近藤には大阪出身で副長助勤の山崎丞が同行しており、隊より50両が渡されています(『金銀出入帳』)。

<ヒロ>
伏見からですので、恐らく舟に乗っての下阪でなかったかと思います。護衛に同行した人数は不明ですが、山崎一人ということはなかったのではないでしょうか。ちなみに、この時期、新選組には最大で150〜160名(副長助勤以下が約90名、局長付き人数が約50名、両長召抱人(局長・副長の小姓か?)が約10名)いたと考えられています(『京都ヨリ会津迄人数』)。局長付や両長召抱人がかなりの人数になりますが、大政奉還前の募集により入隊した新入隊士(あるいは仮隊士・見習い隊士)と考えられています。

また、沖田の病状はよほど悪かったものと思われます。新選組本隊と同行できず京都に残留していたり、前日には伏見の新選組に合流したものの、近藤が襲撃されたときには「一番隊の沖田氏が病中だったので永倉氏が一番隊と二番隊を連れて下手人を追いかけた」(元新選組隊士池田七郎談とされる話「新選組聞書き」『新選組物語』)という真偽不明の逸話も伝わっています。

ちなみに『金銀出入帳』は新選組勘定役による出納記録ですが、近藤は「先生」と記され、土方や副長助勤以下は姓だけが記されています。

<参考文献>『新選組史料集コンパクト版』・『新選組日誌下』(新人物往来社)、『新選組物語』(中公文庫)

2000/1/14



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