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1868年1月15日(慶応3年12月21日)

◆徳川慶喜、早期上洛を了承
◆薩・長・芸・土に伏見巡邏の朝命
◆◇新選組、薩摩兵らと衝突
◆◇大久保利通、会津藩と新選組の軍事行動を非難する

慶応3年12月21日(1868年1日15日)、雪。会津・桑名・幕臣らの暴発を防ぐためとして二条城を退去して大阪城に入っていた徳川慶喜は、岩倉具視の懇請を受けて慶喜上洛の周旋に下坂していた永井に対し、早期上洛を了承しました。

岩倉は、慶喜の二条城退去以来、「辞官納地」について軟化姿勢をみせており、公議政体派の土佐藩後藤象二郎に対して、事態を進めるために慶喜の上洛を「ぜひとも・・・周旋いたしくれ候よう、懇懇申し聞かされ」(原文漢文−読み下し by ヒロ)たそうです。岩倉は、さらに、後藤と、慶喜参内の際は尾張・越前・土佐三候も参内すると内々に話し合いました。後藤は、朝廷と旧幕府の周旋を委任されている松平春嶽(越前候)・徳川慶勝(尾張候)、及び在京の目付け・永井尚志らと会合をし、慶喜の上洛手続き等を決めました。永井はこれらの動きを受けて12月18日(旧暦)に下坂していたのです。(『再夢紀事・丁卯日記』)

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一方、この日、薩摩・長州・芸州・土佐の四藩に対し、伏見巡邏の朝命が下りました。もちろん会津藩や新選組の暴発に備えた布陣です。実は、18日には朝廷から尾張・越前の両藩に対して、会津・桑名の帰国を求める命令が出ていました(徳川内府下坂後、鎮撫方の義命ぜられ候ところ、会桑いまだ滞坂す。このたび山崎あたりに人数繰り出し候やこれ聞くのあり、人心動揺、万一年若の徒、ゆえなく発し候事にては、はなはだよろしからず候間、会桑二藩早々帰国とりはからうべく、きっと尽力あるべく、更に御沙汰候事−原文漢文:読み下し by ヒロ )が、会津藩も桑名藩も動かなかったのです。

さて、薩摩藩から斥候を命ぜられた都筑の兵6〜7名が新選組の様子を伺っていたところ、新選組が発砲したそうです。これらの都筑兵はその場を逃げたのですが、後、軍律違反に問われて斬首に処されたそうです(『鹿児島県軒史料』)。

また、新選組は伏見の薩摩藩兵と諍いを起こし、薩摩藩兵300名ほどが押し寄せ、互いに大砲と小銃を構えて対峙する騒ぎになったそうです。この睨み合いは翌日まで続きましたが、このまま戦争になるのではないかと、市中は騒然となったそうです。町奉行の田宮如雲が駆け付け、市中の訴訟は自分の指揮下にあるのだからと双方を説得し、薩摩藩兵も23日には引き揚げたそうです(『改訂肥後藩国事史料』)。

薩摩藩の大久保利通はこの日、西郷隆盛宛に会津藩と新選組の軍事行動を非難する書簡を送っています。(「淀へ会大砲相備え、橋本辺へ人数繰り出し、伏見新撰組横行の次第、現在朝廷に対し奉り異心を顕し候義、それを邪佞のため一言朝廷より御沙汰なされ兼ね候はば、古今衰世の習いとは申しながら、慨すべき、嘆くべき」『大久保利通文書』−口語訳 byヒロ)

<ヒロ>

都筑兵への発砲が原因で薩摩藩兵が押し寄せたのかもしれません。 新選組は近藤勇が、御陵衛士生き残りの襲撃により負傷して治療のために前日に下阪しており、土方歳三に指揮されていました。

このように倒幕側と小競り合いを起こして市中を騒がせる新選組は、「事に益なくして後に害あり」(『徳川慶喜公伝』)と二条城警備への参加を拒絶した水戸藩の危惧を、自ら証明した格好になってしまいました。


<参考資料>『再夢紀事・丁卯日記』、『徳川慶喜公伝』、『幕末政治と倒幕運動』、『新選組日誌下』

2000/1/15、2001/1/15

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