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慶応3年12月25日(1868年1日19日)早朝、江戸市中における浪人の横行に業をにやした幕府は、市中取締りの任にあたっている庄内藩兵を中心とする配下の兵に、薩摩屋敷を焼き討ちさせました。鳥羽伏見の戦いまで後8日・・・。 一方、この頃、伏見の新選組によって事態が不穏になっているのを憂え、朝廷と旧幕府の周旋を委任されている尾張候徳川慶勝は、藩士の荒川甚作と中村修之進を新選組に派遣し、伏見を退去させようとしたそうです。両者が土方に面会して利害を説くと、土方はその論に服したが、長官(永井尚志)の命令がなければ私的な撤退となるので難しいと言ったそうです。そこで、尾張の使者は下阪して永井に説いて撤退を承諾させました。しかし、設楽備中守、榎本対馬守らが肯かず、撤退命令は出されませんでした(『慶応3年雑記録』)。 なお、『史談会速記録』の永井の談話にも、また出典不明ながら『新撰組史録』にも尾張藩が新選組の伏見撤退を周旋したことが伝えられています。 <ヒロ> 徳川慶勝は、伏見において薩摩藩や土佐藩と衝突を繰り返す新選組に危機感を覚えたのでしょう。水戸藩に続いて尾張藩にも「害あるのみ」と判断された新選組でした。土佐藩の後藤同様、「狂犬」だと思っていたのかもしれません。新選組側の手記等では、挑発をしてくるのは薩摩らの方で、新選組は堪えたことになっており、フィクションでもその図が踏襲されていることが多いのですが、事実はちょっと違ったようです。 土方は尾張藩の撤退の説得に伏したといいますが、本心からのものであったかどうかは疑問だと思います。というのも、このあと、新選組は、慶喜からの撤退命令をも無視して伏見に居座ったとされているからです(明日の「今日」)。 <参考>『史談会速記録』、『新撰組史録』、『新選組日誌・下』 2000/1/19、2001/1/19 |
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