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慶応3年12月26日(1868年1日20日)、大坂城にいる徳川慶喜に軽装で上京するようにとの朝命が下りました。福井藩主松平春嶽のお供で下阪した参議の中根雪江(福井藩士)が伝えたそうです。上京にあたっては、伏見に陣取る新選組を撤退させたうえでくるようにとのことでした。 朝命に応じて慶喜は新選組に下阪するよう命令したが、彼らはなかなか承知せず、逆にますます兵を進めたそうです。(以上、徳川慶喜の回想談『昔夢会筆記』)。 鳥羽伏見の戦い勃発まで後一週間というときでした <ヒロ> さらに、慶喜は、伏見に兵を配るつもりなどもとよりなかったが、新選組が勝手に陣取り、引き上げの命にさえ応じなかったとしています。この回想について、『近藤勇のすべて』では、「つまり、鳥羽・伏見戦争のひきがねとなったのは、こうした新選組の勝手な行動があったからだと、(慶喜は)言っているのだ」としています。新選組は、なぜ慶喜の命令も無視し、結果として徳川が不利になるような行動をとりつづけたのでしょうか。彼らには自分たちの行動が徳川にとって害をなすものであり、徳川擁護派(恭順派)の頭痛の種になっている自覚が果たしてあったのでしょうか。大阪で治療中の近藤の意志であったのか、それとも局長代行の土方独自の判断であったのか・・・。 <参考資料>『昔夢会筆記』(平凡社)、『近藤勇のすべて』(新人物往来社) 2000/1/20、2001/1/20 |