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1868年1月27日(慶応4年1月3日)

鳥羽伏見の戦い勃発


慶応4年1月3日(1868年1日27日)、肥後藩士池辺そう右衛門・桜田惣四朗は会津・桑名藩に伏見退去を説得に行ったが、「ご親切はありがあいがここにいたってはもはや致し方ない」との返答だったといいます。その後、新選組に廻ったが、新選組でも同様だったそうです。池辺・桜田がとりあえず食事をと肥後屋に立寄ったとき、戦争が始まったそうです(『改訂・肥後藩国事史料』)。

前日、旧幕府軍は京都に向かって進軍を開始しました。朝廷の上京せよとの命があったからですが、先鋒隊は倒薩の表を掲げていたといいます。

鳥羽の関門のところで、上京するなら軽装にせよというと朝命があるのだから通せという談判になり、そうしているところに薩摩・あるいは旧幕軍から大砲が発射され、戦争になったそうです。(『昔夢会筆記』)

夕7つ頃、新選組や会津藩の布陣する伏見奉行所にも御香宮の薩摩陣営大砲が撃ち込まれて新選組が応戦したとも(『浪士文久報国記事』)、伏見では新選組が先に大砲を撃って戦端が開かれた(『幕末維新京都町人日記』)ともいいます。戦争が始まると、市中方々から出火し、伏見の町は大火事になったようです。長州兵が奉行所や民家を焼き討ちにしたともいいますが(『文久浪士報国記事』、『大槻文彦筆記』)、新選組が市中に放火した(『島田魁日記』)、会津兵が薩摩屋敷に放火した(『会津藩大砲隊戊辰戦記』)ともいいます。新選組が薩摩屋敷に放火した(『鹿児島県史料』)との記録もあります。

火力の差から、新選組を含む旧幕府軍、その日のうちに淀方面へ退却しました。永倉新八は見方の死者多数で生存者はわずかとしています(『浪士文久報国記事』)。一説には、新選組の死者は150名にのぼるといいます(『旧幕府』)。

関連:幕末史跡-鳥羽伏見・淀

2000/1/27
<参考>『昔夢会筆記』、『旧幕府』、『新選組戦場日記』、
『新選組日誌下』・『新選組史料集コンパクト版』(新人物往来社)所収の関連史料
『徳川慶喜公伝』

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