10月の「今日の幕末」 HPトップへ

元治元年9月頃(1864年10〜11月初旬まで頃)
−伊東、近藤に会って新選組加盟について話合う

【江】元治元年9月中旬頃、深川で北辰一刀流道場を開く伊東甲子太郎(@衛士館)は、折から東下中の新選組局長の近藤勇をたずねて入隊について話あいました

(1)

伊東甲子太郎武明(初大蔵後摂津)は常陸志築の脱藩にして、撃剣に長じ、又和学を嗜み、歌道にも心をよせ、温和にして文武を兼たる壮士なり。江戸深川に撃剣場を設け、中西登、内海次郎と称す股肱の門弟二人あり。藤田小四郎等捜夷の義兵を筑波に挙げたるを慕い居たる際、松平大炊頭頼徳(常陸宍戸)出張の時、江戸上野山下雁鍋屋に於て、有志の浪徒六十余人応援の為集会す。伊東も同行の念にて列座したるが、久留米脱藩古松簡治(変名権藤直郷)密かに見る所ありて、別席に伊東を招き、時機逸し今回は必定敗る故に、請う君は当地に居残り、有志を後日に助けられよと懇告して、伊東兄弟、篠原、服部及び津軽藩毛内監物(変名有之助)等の壮士、爾来、懇応事に感覚を発し、今や憂国の士は京師に集り、尊擾の計画に尽力する時至れり、我等も亦上京して応分の力を国家に致さんは如何やと、甲了太郎の発言に何れも之に賛成する際に臨み、近藤勇出府して同志募集の機会に当りたれば、之れ倔竟の僥倖なりと喜悦して、近藤に面会し、其主儀を聞き、国家の安危に及び、長防の所置如何を議す。

勇元来武事一遍の士にして、文事に暗らく、伊藤の高義卓論に伏する所ありて、遂に同盟を約し、十一月十五日、江戸を発して登京す。

出典:西村兼文「新撰組始末記」(明治22年脱稿)
注:読みやすいように、カタカナは平仮名に、句読点は適宜いれています

関連:伊東が天狗党助勢をあきらめた背景については伊東甲子太郎の事件簿 「元治元(1864)」(@衛士館)をどうぞ。

(2)近藤とともに東下した藤堂平助は伊東の寄弟子である。彼が、新選組の同志はほとんどが尊王派であり、加盟しないかと誘った。そこで近藤に会って、いろいろ話し合った。その後、同志と相談の上、上京することを近藤に約束した。しかし、加盟するかどうかは上京してから決めることにした。自費で上洛と決し、上洛前に会津藩公用人野村左兵衛に挨拶をした。(加納鷲尾談 『史談会速記録』104)加納鷲尾は伊東の元へは剣を学ぶために出入りしていた。

<ヒロ>
近藤の江戸到着は9月9日なので、伊東と近藤が会ったのもそれ以降。(藤堂の江戸到着は近藤と同時かそれより前だとされるので、藤堂が勧誘したのは8月中の可能性もありますが)。ちょうど、攘夷を本旨とした天狗党の筑波挙兵が藩内党争に変質し、それをきらって攘夷実行のため横浜に向った天狗党応援の諸士(芳野桜陰ら)が捕縛され、横浜攘夷も不可能になった頃になります。

■伊東の新選組加盟
伊東が「尊王派」であるのになぜ佐幕組織である新選組に加盟したか・・・とよくきかれるのですが・・・わたしはあまり不思議には思っていません。(そもそも、尊王と佐幕は対立する概念ではありません。佐幕に対しては倒幕・討幕などがあります)

わたしはこの上京前の伊東(とその仲間)は水戸学の「尊王(攘夷)敬幕」に影響されていたと思っています。水戸派では天皇への誠忠を非常に大切にしています。伊東の慶応3年の建白書にも「誠忠」の言葉がでてくるし、彼自身の号も「誠斎」です。天皇のいる京都を守衛する京都守護職&天皇の信頼厚い松平容保のお預かりである新選組に入って政治活動(このときは攘夷)を展開することは、彼らにとって願ってもないことだったのではないでしょうか。新選組も「誠」をかかげていますし、もちろん尊王です。もともとの結成目的は「尽忠報国」のために攘夷の一角を担うことでした(こちら)。意見が完全に一致したかどうかはともかく、ともに「国」のために尽力できるパートナーだと認識したのではないかと思います。(近藤は伊東と出会う前後に松本良順をたずねてその開国論に得心したとされますし、伊東ものちに大開国大強国を唱えますが、この当時は、やはり、両者とも、たとえ開国の利点は認めていたとしても、天皇の意思である破約攘夷で一致していたのではないでしょうか・・・。また、長州処分については、伊東はこの時期から寛典論だろうと考えてよいと思います。近藤はどうでしょうか。実は、伊東の入隊後、ともに広島に出張した後の近藤は、寛典論を会津藩に上申しています。この点でも、伊東と歩み寄れるところがあったのではないでしょうか。)

また、伊東の思想ですが、この時期に倒幕的な考えがあったという記録はありませんし、伊東の御陵衛士時代の建白書(こちら)をみても、一和同心を基本とし、公議を強調する穏健な政治構想をもっており、武力倒幕ではけっしてないと思います。王政復古後には旧幕府が行政に携わることも提言しています。最終的には、幕藩体制を超えた政体(公卿を中心)を志向していたという意味では広義の倒幕派になるのかもしれませんが、伊東を倒幕派というなら、大政奉還推進派の親藩・越前藩なども倒幕派に入るでしょう。いずれにしても、このような構想をもつにいたったのも、新選組加盟後、京都・西国等において見聞を広めてからのことではないかと思います。

一方、近藤は、池田屋事件のまえには、隊の解散も考えるほど憂鬱になっており、新選組の方向性に悩んでいたふしがあります。近藤はかなり政治志向があり、伊東の加盟は彼の考える組織強化にとって願ってもなかったはずです。事実、その後、かなりの厚遇をしていますし。近藤は伊東にほれこんだとみています^^。

もちろん、双方の利害が一致したという面ありだと思います。近藤は伊東やその同志を新選組の勢力拡大に利用し、伊東らは伊東らで、新選組を通して自分たちの志を実現すしようとした・・・。一つの決断の理由が一つだけということはあまりないですものね。

ちなみに永倉の晩年の記憶をもとにした読み物である『顛末記』では・・・、 (3)藤堂は長年の親友、伊東を訪ね、−自分は尊王攘夷のために近藤と同盟を結んだが、近藤は「幕府の爪牙」となり、当初の目的である尊王攘夷は達成できそうもない。近藤が江戸に来るので、これを機会に彼を殺して、尊王家のあなたを隊長とし、新選組を純粋の尊王党にしたい−と言った。伊東は驚いたが藤堂に同意し、とりあえず新選組に同盟して、京都でこれらを実行することを密約した。その後、近藤と面談し、尊王について談じた。近藤は伊東のたくらみに気づいたがさりげなく伊東に同意したので、伊東の同盟が決まった。(永倉の談話等を基に記者が書いた読み物『新撰組顛末記』)とされています。

しかし、むろんのこと、永倉は、藤堂と伊東の会話を知りうる立場にはいえません。また、近藤殺害密約が本当にあったとしたらそれを誇示することこそあっても、隠す必要のない御陵衛士生き残りの遺談・回想録においても、殺害密約は語られていません。また、近藤が伊東のたくらみに気づきつつ加盟を了承するのも不自然。『顛末記』の藤堂の殺害教唆説は後の対立をふまえた後づけの想像であり、信憑性に欠けるといっていいと思います。もともと『顛末記』は、おもしろおかしくするために記者の想像・誇張も入っていることにも留意が必要です。

いずれにしても、関係者の直筆や直談が残っているのに、こちらはほとんどかえりみられないというのは・・・ちょっと・・・と思ってしまいます。

参考:「新撰組始末記」『野史台維新史料叢書』三十、 『史談会速記録』合本17-104、『新撰組顛末記』、『新選組戦場日記』

(1999.9.18、2000.10.5、2004.2.20, 2004.3.3)

PS:大河に喝!
今日、伊東が登場するというので大河を見ました。殺す側の論理をおしとおす世界観がまず苦手でした。今回の大河にも伊東にも、もともと期待しておらず、最初からほとんど見ていなかったのですが、伊東役の谷原章介さんのトークショーでの伊東像に感激して、期待をしてしまった(徒然:大河新選組!谷原章介さんの伊東甲子太郎に期待^^のが大きな間違いでした。水戸黄門の悪代官のような伊東でした(涙)。近藤は憂国の志士で、日本国をどうするかという理想をもっており、一方、伊東は「歴史の表舞台にのりだす」という自己の野望に燃えるせこい小物に描かれているのは、あまりにも・・・ひどい(涙)。天狗党との関わりもまったく描かれていないし、藤堂が伊東を勧誘するあたりも、近藤と議論して考えに一致をみるという部分もまったく描かれてなかった。役者さんは、わかってくれていたのに、なぜこんなことになってしまったんでしょうか。なぜ、伊東らに志があったことを無視するのでしょうか・・・。ドラマ中で坂本龍馬が披露していた構想なんて、それこそ伊東にいわせてもよいくらいなのに。家族思いの伊東なのに、きっとウメさんもでてこないんでしょうね。これで、また伊東嫌いが増えるんでしょうか・・・はぁ。(2004.8.9)


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