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【小史】 加納は剣では伊東を師匠同様にしていた。篠原と古くからの知り合いで、篠原・服部・佐野らと横浜外人居留地の警備を務めて、攘夷を誓っていた。伊東と篠原らを引き合せて共に上洛。すでに妻子がいた。油小路で謀殺された伊東の遺骸を引き取りにいって待ち伏せの新選組に襲撃されるが包囲を破って逃走。薩摩藩邸に保護される。墨染めで近藤を襲撃。鳥羽伏見の戦い後、衛士残党と挙兵し、相楽総三らと赤報隊を結成。相楽と袂を分かって帰京後に偽官軍事件で投獄される。釈放後、薩摩軍に属して東上し、板橋で大久保大和が近藤勇であることを確認した。伊東らの仇の近藤だが、「近藤は実にエライ人でありましたが・・・」という証言を残しており、公平な性格のよう。子母沢寛の『新選組始末記』に戊辰戦争中、加納を頼ってきた大石鍬次郎を薩摩軍につきだし、大石は薩摩軍に拷問された上死んだとあるのは創作。維新後、薩摩軍小姓組を経て開拓使に出仕。享年64歳。 |
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名前 | 加納鷲尾(道之助、伊豆太郎)。諱道広 |
出身 | 旗本大久保宗九郎知行の伊豆国賀茂郡加納村。父高野伴平 母八重。 |
生没年 | 天保10年(1839)11月9日/明治44(1911)。享年84歳。墓所:青山墓地ニイ−12−3 |
年表 | 生い立ち〜上洛 新選組・御陵衛士時代 赤報隊・戊辰戦争 明治 |
備考 | 加納の研究については、加納家に伝わる文書を基にした清水隆氏のものがおすすめです。(『新選組銘々伝四』・『新選組大人名事典上』など) |
文中のリンクは、「なるほど!幕末」の関連コンテンツに飛びます。ブラウザーを閉じて戻ってね。少年時代■生い立ち加納は伊豆国賀茂郡加納村の農民高野伴平の長男として、天保10年(1839)に生まれた。母は、嘉永4年(1851)、加納が13歳のときに死亡している。 ■ペリーの尊大な態度を見て尊攘に目覚める 嘉永6年(1853)米国提督のペリーが軍艦4隻を率いて浦賀へ来航し、日本に開国を求めた。翌安政元年(1854)、回答を得るためにペリーが再来航し、交渉の結果、幕府は、下田・箱館の開港、漂流民保護、アメリカの片務的最恵国待遇、領事赴任などを内容とする日米和親条約を締結した。ペリーが伊豆で幕府と交渉したときに、加納(16歳)はペリーの行列を見物したらしい。このとき、「尊大なもので、紀律の立ったもので見事である。併し是等の人が来た為めに、我国中動揺いたしますから、子供心にも憎い奴と感念を起し、為に伊豆に居ても落ち着かぬで、江戸に出て神田於玉ヶ池千葉家に入門致し剣術を学び、一人でも報いてみよう」と、尊王攘夷に目覚めたそうである。(『史』)【関連:「開国開城」「ペリーの浦賀来航」@幕末館】 ■江戸・深川へ遊学 尊王攘夷に目覚めて江戸に出た加納(16歳)は、深川に住んだという。そのため、北辰一刀流を千葉道場以外でも、深川の皆伝者谷謙三・小林権右衛門に学び(『史』)、さらに漢学を小西金蔵に学んだという。ところが、翌安政2年(1855)10月に、に安政の大地震が起り、加納(17歳)は伊豆に戻った。(「履」) ■結婚・娘の誕生 伊豆に戻った加納は下賀茂村の女性と結婚し、安政6年(1859)に長女・容を得た(21歳)。加納は妻と生まれたばかりの娘を置いて、再び江戸に出た(「履」)。加納が伊豆にいた間、安政3年(1856)には米国総領事ハリスが来日し、通商開国を強く求めた(総領事ハリス来日)。安政5年(1858)、幕府は孝明天皇の勅許なしで日米通商修好条約を調印をした(条約勅許問題)。激怒した孝明天皇は水戸藩へ密勅(戊午の密勅)を下した。これを水戸藩の幕府転覆の陰謀とする大老井伊直弼は密勅降下関係者、及び政敵の徹底弾圧にのりだした(安政の大獄)。加納が江戸に戻った安政6年は安政の大獄の真最中である。 同志との出会い■再び江戸へ。伊東に剣を学ぶ安政の大獄により、水戸藩は特に厳しい処分を受け、さらに密勅の返納をめぐって尊攘派が二派に分裂して対立した。藩論が返納と決まり、反対派(激派)への弾圧が始まると、追い詰められた激派の中心人物たちは脱藩し、薩摩藩尊攘激派の一部とともに、幕政批判と直弼弾劾を目的とする大老井伊直弼の暗殺を決行した(桜田門外の変)。万延元年(1860)3月のことである。この年、加納(22歳)は、神田お玉が池の北辰一刀流千葉栄次郎の道場に入門したという。栄次郎は文久2年(1862)に死去するが、加納は、それより以前、いつの頃からか、深川佐賀町の伊東道場にも通い始めた。加納は後年「伊東大蔵(甲子太郎)と云う人は、元々稽古に参り、師匠同様に致し居りましたことゆえ」と語っているが、この「師匠同様」が、伊東が道場主の時に正式入門はしなかったものの教えを受けて「師匠同様」だったことを指すのか、伊東がまだ塾頭だった時代に指導されたことを指すのかはよくわからない。 ■横浜へ。篠原・服部・佐野・大村らのちの同志と知り合う 加納は文久2年(1862)、横浜に赴き、勤武所で剣・槍・柔術を修業した(「履」)。その頃、既に横浜は通商条約に基づいて開港されており、外国人居留地が存在した。加納いわく「もし同所の異人館をおそう場合には非常に便利と思うがどうだと申ものがあって尤も望む所であると横浜に行て居りました」(『史』)のだという。篠原秦之進、服部三郎兵衛・柴田小源太・元井和一郎・北村吉六・佐野七五三之助・松本某・中野某・太田某・北川某らと知り合ったのがこの頃のようで、翌文久3年(1863)1月には、横浜で攘夷の機会を待つにいたったという(「秦」)。 その後、加納は、神奈川奉行窪田冶部右衛門に頼まれて、篠原・服部・佐野・元井・大村らとともに、外国人取り締りを務めたようである。同年10月には、篠原らが幕府の役所に乱入した英国人3名を緊縛して海岸に放置したが、英国水兵が多数上陸して騒ぎとなった。同志の中には、これが尊攘の機会だと奮い立つ者もあったが、時勢の得失を判断した篠原は横浜を脱出して、篠原は江戸に向ったという。この事件に関して、加納の関与は不明である。なお、窪田は、神奈川奉行所に勤める前までは、東帰後の清河八郎の居留地襲撃の謀議に加わったとして山岡鉄舟らとともに謹慎に処せられていた人物である。その後、慶応3年春には日田の代官となっており、九州遊説中の伊東に嫌疑をかけて足止めしている。また、大村安宅は、のちにこの事件に関連して捕縛され、元治元年12月20日に横浜で切腹に処せられたという。 事件に前後し、加納は、篠原ら同志を、剣の師匠であった伊東やその弟の三樹に紹介したようである。 ■天狗党への参加を見送り 元治元年(1866)3月に水戸藩激派(天狗党)が筑波に挙兵した。彼らの目的は攘夷の先鋒となることであり、具体的には横浜での攘夷を考えていた。待ち望んだ尊攘の機会だと喜んだ加納らは大村を筑波に派遣し、天狗党が横浜に来るのを待ったという。しかし、天狗党挙兵は迷走しだし、水戸藩の内訌の様相を呈してきた。7月には真田某・庄司某(北辰一刀流千葉道場の真田範之介・庄司弁吉)が、武田耕雲斎が水戸に戻って攘夷の大義を掲げて「奸党」を掃討するので、参加しないか>ともちかけた。しかし加納は「思うところ」があって断ったという。一方、伊東も天狗党の動静には気をもんでおり、応援に駆けつけようとして、久留米藩脱藩の古松簡治に「当地に残って有志を後日助けてほしい」と止められたということがあったそうだ。それ以来、伊東は篠原・服部・毛内らと、「今や憂国の士は京師に集り、尊攘の計画に尽力する時となった。我らもまた上京して応分の力を国家の為に致さん」と約したという(「壬」)。その中に、加納も含まれていただろう。 新選組時代■伊東ら同志と、新選組「加盟希望者」として上京天狗党応援を断ってからまもない10月頃、京都の近藤勇という人物が同志を募るために、数名で出府したとの噂が加納の耳に入ってきた。そんなところへ、伊東から相談があった。近藤とともに出府した隊士の中には伊東の「寄り弟子」藤堂がおり、伊東に、新選組は専ら勤王の者なので京都へ行く気はないかと勧誘したのだという、伊東はとりあえず近藤と会っていろいろ話を聞いたが、即決をせず、加納や篠原らに相談したようである(『史』)。相談の結果、同志そろって上京することにしたが、新選組入隊者ではなく加盟希望者として江戸を発った(『藩』)。京都に行って事情をよく把握した上で近藤らの同志になるかどうかを決めることにしたからで、旅費も自費だったという(『史』)。 ■新選組に加盟・第2次征長に反対 加納によれば、伊東らはしばらく食客をしながら、京阪・近畿を視察したが、3-4ヶ月たつと加盟せねばならぬようになって加盟したという(加盟経緯・時期は曖昧)。 慶応元年夏の編成では伍長となった。(「壬」) 京都守護職公用人の手代木直右衛門・諏訪常吉などにも会い、慶応2年(推定)には、第2次征長反対意見を述べたという。 御陵衛士■御陵衛士拝命に尽力慶応3年3月、加納は伊東や同志とともに御陵衛士を拝命し、3月20日、新選組から分離した。 油小路事件■重囲を突破し、薩摩藩邸に慶応3年11月18日夜、近藤に呼び出された伊東が、帰途、七条油小路で新選組に暗殺され、遺体が囮として油小路に放置された。 彼らは待ち伏せの新選組数十名に襲撃されと、藤堂平助・毛内監物・服部三郎兵衛の3名が戦死した(こちら)。加納の談話(明治34年)によれば、西側で見張りをしていた加納は、月光をうけて刀がピカリと光るのを見て、同志に「それ覚悟せよ」と警告すると重囲を斬開き、醒ヶ井通りの西側を北へと走った。その先には今出川の薩摩藩邸がある。薩摩藩に誰も知った人はいないが、行くところもなく薩摩藩に投ずる以外ないと思ったという。気づくと醒ヶ井通りの川向こうを走っている人物がいるので、敵だと思ってにらみ合いながら走っていたが、一条あたり薩摩藩出身ので富山弥兵衛だと気づいて合流した。そのうち三樹三郎も合流し、三人が薩摩藩邸の北の通用門にたどり着いたのが明けて19日の午前3時〜4時ごろ。何度も門を叩いて門番を起すと「何用か」というので「中村半次郎氏に会いたい」と言うと「夜が明けてからお出でなさい」という。仕方がないので「御藩に怨みはないけれども天下に身を寄せるところがないから(切腹して)御門前を汚します」と告げると「そういう馬鹿なことをいうか」と中村に知らせてくれたという。その後、薩摩藩では、今出川では安全上問題があると、護衛をつけて伏見藩邸に送ってくれた(こちら)。 ■同志の復仇:近藤勇要撃 伊東らが殺害された1ヶ月後の12月18日早朝、近藤勇妾宅に潜伏するという沖田総司を阿部十郎・内海次郎・佐原太郎が襲撃した。阿部・内海・佐原は油小路事件時に不在だった人々である。しかし、沖田は前夜のうちに伏見の新選組宿営地に戻った後であった。同日、京都で騎馬の近藤勇をみかけた阿部らは、伏見薩摩藩邸に戻り、居合わせた篠原・加納・富山を加えた6名で近藤を要撃した。近藤を狙撃して重傷を負わせたが騎馬のため逃げられてしまった。加納らはそのまま今出川薩摩藩邸に戻った。 薩摩藩の依頼で江戸の探索準備中。投降した大久保大和を近藤勇だと確認準備中。 |
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