2月の「今日」 幕末日誌文久3 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
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■守護職 【京】文久3年1月7日、会津藩は公用方を設置しました。 「鞅掌録」によれば、守護職に任命されて以来、公用は留守居役が担ってきました。しかし、小森久太郎・野村左兵衛・外島機兵衛らは京都で新しい局を儲けることにしました。公用方には大藪俊蔵(用人兼)。丹羽寛次郎(書簡)、小野権之丞・小室金吾(奥番兼)・原政之進(刀番兼)などが就きました。 大野英馬・河原善左衛門・柴秀次・松坂三内・秋月悌次郎・広沢安任(富次郎)は取調を命じられ、容保の指図を受けて議論し、外向けには来客を接待し、「浮浪脱藩の徒」であっても「国家に裨益あるものは厚く交」ることになりました。 参考:『会津藩庁記録』三(2001.2.22) ■将軍上洛延期運動 【江】文久3年1月7日、薩摩藩士大久保利通・吉井幸輔は、政事総裁職松平春嶽に朝廷への加増を建議しました。 この日の夜、越前藩邸を訪問した両名は、朝廷供御がことのほか欠乏しているので、加増して30万石に定めるようにとの意見を述べたそうです。また、大久保は(目的である)将軍上洛延期運動に成功したので、近々に京都に出発することになっており、春嶽は、近衛忠煕関白への返書を託しました。 同日、山内容堂の出立が10日と決まりました。 参考:『続再夢紀事』一(2004.2.28) 関連:■テーマ別:「将軍上洛下準備:京都武力制圧VS幕薩連合の公武合体派会議」「薩摩藩の将軍上洛延期運動」 ■開国開城:「幕府の公武合体派連合(幕薩連合)策」 「後見職・総裁職入京-公武合体策挫折と攘夷期限」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」 ■浪士組 【江】文久3年1月7日、幕府は浪士取扱役松平主税介に「尽忠報国」の浪士募集を命じました。また、同日、庄内藩に清河八郎宥免の達しが出されました。
実際の募集は、清河の同志の池田徳太郎・石坂周造があたったようです(石坂談『史談会速記録』)。 <ヒロ> (1)「尽忠報国」の有志を募集した浪士組 御陵衛士が一時は属した新選組の母体ともなった浪士組はこの達文による募集によって結成されました。 達文からは、(1)浪士募集が「御変革」(=公武一和の実を示すための幕政改革と解釈?)の一環であること、(2)募集の目的は有志に「一方の御固め」(=守衛・防衛の一角)を任せること、そして、(3)応募条件が「尽忠報国の志」を有することであったことがわかると思います。 浪士組の目的である「一方の御固め」は何なのでしょうか?その疑問をを解く鍵は、「尽忠報国」という言葉にあると思います。 「国」という言葉は、この時代、藩(幕臣にとっては徳川家)をさす場合と、日本国(「皇国」という言葉をよくみかけます)をさす場合があります。では、浪士を募集しているのは幕府ですから、この「国」は徳川家(幕府)で、「一方の御固め」は将軍/幕府を守ることなのでしょうか? そうではないと思います。 幕府において、浪士募集の判断を下した松平春嶽やそれを後押しした山内容堂は、常々、幕府が私を去ることをしきりに論じています(こちら)。浪士を幕府のための「私」兵として集めるという考えに同意するとは考えられません。この時期は幕閣も(表向きは)朝廷尊崇の姿勢を見せていますし。 また、過失があっても「尽忠報国の志」があれば赦免するとなっていますよね。これは、浪士募集のしかけ人である一方、幕府に罪人として追われている清河八郎(とその同志)が念頭に置かれているのは間違いのないところです(実際、この日、庄内藩江戸屋敷に清河八郎を捕縛に及ばずとの達しが出されています)。清河八郎にとっての「尽忠報国」は、庄内藩でも幕府でもなく、「皇国」に対するものです。そういう意味でも、達文の「尽忠報国」も幕府のため、ではなく、「皇国」のためだと考えるのが自然だと思います。(「尽忠報国」というのは尊攘派が好んで使うフレーズでもあります。彼らの「国」も「皇国」です)。 そういうわけで、「一方のお固め」は「皇国」の守衛を意味するのだと思います。この時点で想定される「皇国」の守衛とは外国の脅威からの守衛、すなわち「攘夷」です。つまり、浪士組は、幕府が「尊王攘夷」のために「尽忠報国」の有志を集めた集団だったといえると思います(少なくとも名目上は)。よく、浪士組を、将軍上洛の警衛のために組織されたという人がいるのですが、達文からはそれが事実ではないことがわかると思います。 (2)容堂と浪士組 平尾道雄の『新選組史録』によれば、この日、清河八郎は、山岡鉄舟・松岡萬とともに、鍛冶屋橋の土佐藩邸で山内容堂に招かれて志望を語り、容堂から激励を受けたそうです(出典は残念ながら不明です。『清河八郎遺著』にのっていないので土佐藩関係の資料でしょうか)。容堂は浪士組に大いに期待するところがあったようで、前年の文久2年12月8日に幕府が浪士お抱えを決めた翌日の9日には、「昨日粗(ほぼ)決定の浪士御抱え亦(また)一日にても早々に仰せ付けられ候方、万々然るべく存じ奉り候」との書簡を春嶽に送って、実行を促していました。小山勝一郎『清河八郎』によれば、そもそも幕議で浪士お抱えが決まったのは容堂の発言で春嶽が決定したのだとか。同書ではこの容堂を説得したのが間崎哲馬(土佐勤王党です)だとされています。 間崎哲馬が容堂に浪士募集を働きかけた経緯は知られていないのですが(管理人が知らないだけ?)、清河に依頼されたとみてよいと思います。文久2年に京都挙兵計画が寺田屋事件で失敗した後、清河は、閏8月には水戸に潜伏していましたが、横浜攘夷計画を捨てた直後の24日、春嶽宛の大赦の上書を飛脚で住谷寅之介に託し、江戸の山岡鉄舟・間崎哲馬に転送してもらうよう依頼しています(★)。浪士募集のきっかけとなった2度目の上書も、同じような経路で間崎に伝わったのではないでしょうか。 (3)水戸藩尊攘激派と浪士組 そう、実は、水戸藩尊攘激派と浪士組も関りが深いのです。清河は閏8月に水戸に入ると、住谷寅之介・下野隼次郎・山口徳之進・宮本辰之助(住谷の弟)らと知り合いますが、その後、特に住谷は清河と頻繁に会合をもっています。当然、浪士組設立の経緯・清河の目的を把握していたでしょう。管理人は、住谷らは攘夷実現という共同目的のために、清河と浪士組を積極的に応援していたのではないかと考えています。 たとえば、宮本は、草野剛三に対して、<幣藩の中納言殿においても上洛をされる訳である。水戸の獄に下っていた者は悉く大赦の令によって出た。新見錦・芹沢鴨などという者は斬首になるくらいのところを、今度の大赦で許された。既に江戸に行って伝通院の有志の者と謀っているところである>(『史談会速記録』要約byヒロ)と話したといい、それを聞いた草野は浪士組に参加しています。また、この発言からは、彼らとは同志である芹沢鴨が浪士組募集に応じ、清河と気脈を通じていたことがうかがえます。 芹沢は釈放されたとはいえ、水戸藩士ではありませんので、藩主慶篤に随行して上京することはできません。それで、浪士組に加わることになったのではと思いますが、浪士組内に水戸尊攘激派の同志がいることは、これから上京する住谷らにとっても好都合だったことでしょう。芹沢に清河を紹介したのは住谷らだったのかもしれません・・・。 参考までに(何度か書いていますが) 住谷寅之助(当時45歳)は藩士(100石)で、斉昭雪冤運動に関わり、また原市之進らとともに老中安藤信正襲撃(「開国開城」「坂下門外の変」)計画に関った尊攘激派です。このとき、長州藩士周布政之助や桂小五郎に書簡を送り、水長盟約に基づいて行動を起すよう求めています(長州藩の事情で長州藩の参加は成りませんでした)。潜伏中の清河に頼まれて松平春嶽への上書を江戸の間崎哲馬に渡しています。文久3年の藩主上洛に先発して上京し、尊攘激派の翠紅館会議にも参加(こちら)。藩主東帰後も京都警衛指揮役として本国寺に留まりました(在京水戸激派=本国寺党の中心人物の一人です)。 下野隼次郎(当時49歳)は弘道館教授で、やはり坂下門外の変に関わっています。文久2年12月に原市之進らと一橋慶喜に随従して上京。翌文久3年1月には尊攘激派の翠紅館会議にも参加(こちら) 山口徳之進(当時20歳)は藩士(200石)で、坂下門外の変の謀議に関った激派です。文久3年の藩主上洛に先発して上京し、尊攘激派の翠紅館会議にも参加(こちら)。芹沢鴨を知っていたようで、『史談会速記録』によれば、水戸藩同志がいるからと京都残留を望む芹沢について、<病気なので残したらいいだろう>と草野剛三らに助言したようです。(こういう相談をされるということ自体、浪士組と水戸藩激派とのつながり、芹沢と水戸藩激派とのつながりを示していますよね?)。また新見錦の死に関わりがあるとも推測される吉成恒次郎とは従兄弟にあたります。(こちら) 参考:『新選組史録』・『清河八郎』・『史談会速記録』(2001.2.22、2004.2.28、3.19) 関連:■清河/浪士組日誌文久3(@衛士館) |
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