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元治元年10月16日(1864年11月15日)
【京】朝廷、守護職松平容保に対し、征長完了まで、凝華洞への滞留・御所警備を命じる

☆京都のお天気:天晴(嵯峨実愛日記)

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■京都/御所警衛

【京】元治元年10月16日、朝廷は、京都守護職松平容保に対し、征長が終わるまで、御所内(凝華洞)にとどまり、御所警備にあたるよう重ねて命じました。(武家伝奏飛鳥井雅典から伝達されました(『七年史』ニp376))

関連:■テーマ別元治1「御所/市中警備」(2018/8/20)

>御陵衛士前史
元治元年10月16日頃、前日に江戸を発って京都に向った伊東甲子太郎ら一行のうち、過去の横浜での攘夷活動が原因で幕府に追われていたという相馬藩出身の大村安宅は、神奈川の関所で、嫌疑を避けるために間道に入りました。

<ヒロ>
伊東らと親交のあった西本願寺侍臣西村兼文の記した「新撰組始末記」によります。日付は推測です。伊東らは15日に大森を出立し、16日夜は戸塚に宿泊していますので、神奈川を通行したのは16日だと考えました。

伊東が神奈川を詠んだ歌。
 神奈川辺にて雨のふりければ
いかにせん積るおもひはます鏡みかけとくもる別れ路の空
(「残しおく言の葉草」原本より判読)

<こんな意味?>
どうすればいいのか。積る思い(=心配・不安)は、みがいてもみがいてもくもってしまう真澄鏡のように打ち消そうとしても増すばかりだ。この別れ路のくもり空のように。

幕府の捕縛を避けて間道を入った大村へを案じる思いを詠んだものではないでしょうか(その後、大村は、「或同志の反復」で幕府に捕まり、この年の12月20日に処刑されたそうです(「秦林親日記」)。伊東らと再合流して上京することはかないませんでした。無念だったことでしょう)。

この日の夜、戸塚に宿泊した伊東の歌。
 戸塚の駅にやとりて
忘れめや恋しきものをかり枕たひ寝の夢に袖ぬらしては
(「残しおく言の葉草」原本より判読)

<こんな意味?>
忘れることがあるだろううか(いや忘れはしない)、恋しい者を。仮枕の旅寝で見る(恋しい者の)夢に涙を流す自分が。

「恋しきもの」・・・江戸に残してきた家族でしょうか。古語の「恋し」は、「なつかしい」という意味もあるので、もしかしたら関東に残した同志・間道に入った大村安宅・故郷の母こよなども含めた(ホーム・シックな)歌かもしれないのですが。とにかく、他の歌をみても、伊東はよく泣いています。堂々と歌に詠むくらいですから、彼にとって、人恋しくて涙を流すことは恥ではなかったんですね。(長州ファンの方に教えてもらった話では、吉田松陰もよく泣いていたようなので、この時代は、いまほど男が泣くことに違和感がなかったのかも)。

ところで、この歌は、なんとなく、「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする」の恋の歌で有名な式子内親王の「忘れめや葵(あふひ)を草に引き結び仮寝の野辺の霧のあけぼの」(新古今集)と似てる気がします。伊東が式子の歌を知らないわけはないので、本歌なのかもしれません。式子が賀茂斎院を務めた時期の歌で、普通に読めば普通なんですが、葵(あふひ)が「逢ふ日」を連想させる、ちょっと艶っぽい歌です(管理人の邪心?)。

いずれにせよ、江戸を出発した15日に詠んだ歌(こちら)といい、この16日の歌といい、国事に奔走するために上洛するはずなのに、国事に燃える気持ちではなく、家族や同志への思いばかりが詠まれているところが、伊東らしいかな・・・と思います。

参考:「残しおく言の葉草」の原本(2000.11.14、2003.12.1、2006.12.16)

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