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元治元年10月15日(1864年11月14日)
【京】征長総督徳川慶勝、京都を発して大坂に/薩摩藩士西郷隆盛・吉井幸輔下坂
【江】後の御陵衛士、伊東甲子太郎ら江戸を出発して京都へ向かう

◆10/13【京】前佐賀藩主鍋島斉正着京。【江】幕府、将軍進発に関する宿割等を達す。幕府、岡崎藩主本多忠民を老中に、苗木藩主遠山友詳を若年寄に補し、本多を老中首座とする。本多を進発随従を命じ、、老中諏訪忠誠を外国担当とし、随従を免じる
◆10/14【京】目付戸田、芸州に向けて出立【天狗諸生】/幕府、小浜・高遠・飯山・岩村田・椎谷其他甲斐・信濃及中山道に領地ある諸藩に令し、常野浪士遁走の聞あるを以て、之が討伐を命ず。


☆京都のお天気:陰雨辰半頃晴巳時後再降雨(嵯峨実愛日記)

>第一次幕長戦へ
■大坂の軍議
【京/坂】元治元年10月15日、征長総督徳川慶勝が、京都を発して大坂に到着しました。同じ日、薩摩藩士西郷吉之助、吉井幸輔も下坂しました。

■将軍進発問題
【京】元治元年10月15日、将軍進発の周旋のために東下していた会津藩士小森久太郎が帰京しました。(七年史)

関連:テーマ別元治1■第一次幕長戦へ(元治1)

>御陵衛士前史
■上京
【江】元治元年10月15日、後に御陵衛士となる伊東甲子太郎・三樹三郎(当時三木三郎)・篠原秦之進・内海次郎・加納鷲尾・中西登ら、そして同志大村安宅・元井和一郎が、江戸を出発しました

東下をしていた新選組の近藤勇・永倉新八・尾形俊太郎・武田観柳斎、及び江戸での隊士募集に応じた新入隊士も同日に江戸を出発しました。ただし、伊東らの出立は近藤らとは別々で、大森(品川)の寿留賀楼から出立し、17日に藤沢宿で合流したようです。

<ヒロ>
そうでなくても、当時、旅に出るということは大変なことでした。まして国事のために上京するわけですから、再び帰ってこられるかどうかは定かではありません。寿留賀楼では親しい人たち(関東に残る同志や門人たち?)と杯を交わし、見送られての出立だったのではないでしょうか。

このときを詠んだ伊東の歌。
甲子の歳国の為に都に上らんとて大森の寿留賀楼を出で立て
「残しおくことの葉草の沢なれといはて別るゝ袖の白露」(※原本判読から修正)

<素人解釈>
「(江戸に残し置くあなたに)残し置きたい言葉は多いけれど、何も言わずにに別れたわたしの袖は、草に置かれた白露のように涙で濡れています」。残していくあなたに言いたいことは山ほどあるのに、改めて向かい合うと胸がつまって何も言えない。いざ江戸を発つと、寂しさが次第に心にしみいり、涙がこみあげてくる・・・そんな歌になるでしょうか。「沢(さは)」は「多い」と解釈しました。「草」や「白露」の縁語になっています。

伊東が言の葉草を残し置いた相手は、家族ではないかと想像しています。伊東は翌16日に、「忘れめや恋しきものをかり枕旅寝の夢に袖ぬらしつつ」という恋慕の歌を詠んでいますし、上京してからも恋(愛)と国事のはざまに揺れる心をいくつも詠んでいます。(関連:衛士館「残しおく言の葉草」「(2)恋、志の歌」)。国事のために江戸を出立した伊東の最初に詠んだ歌が、(その国事に高揚した気持ちではなく)残し置く家族への思慕を詠んだものだとすれば、こちらも、大変伊東らしい気がします。(なお、かすみがうら市郷土資料館で拝見した史料によれば、妻の名はうめではなく、上京前に娘がいたこと可能性もあるようです)

伊東の妻が伊東の母のこよに夫の旅立ちを知らせた手紙が、ご子孫の手元に残っています(関連:衛士館(書簡(3)こよ(伊東母)宛(伊東妻の)書簡)。

「出立の日は当月十五日に御座候。大蔵(伊東のこと)に付き添い候人々は、三木氏(伊東の実弟)、並びに内海、中西(ともに伊東道場塾頭)、外に大蔵をしたひ候人六人、是は誠にたしかの人々にて、全く国家のためを思ひ、ともに志を立て候人々故、誠に大蔵の力となり候人々ゆえ、私事も安心いたし居候まま、かならずかならず御心配なく御安心願い上げ候」

大蔵というのは伊東の最初の名です。上京を機に改名し、甲子太郎を名乗っています。

わたしは、後に、伊東を案じるばかりに、こよが病だと嘘をついて伊東を江戸に呼び戻し、それが原因で離縁されたという妻の、この書簡が好きです。夫を誇らしく思う気持ち、また寂しく不安な気持ちを気丈に隠している武士の妻としての心情が伝わってくる気がします。国家のために出立する夫の名を改名後の「甲子太郎」でなく、生活をともにした「大蔵」の名で呼んでいるのも女心という気がします。

この書状によると伊東派は総勢10名の上洛ということになります。伊東を慕う6人は、佐野七五三之助、篠原泰之進、加納鷲尾、大村安宅までは確認できるのですが、残りは確かではありません。服部三郎兵衛(武雄)も伊東と同時期に上京しているはずなのですが名簿にはのっていません)。

ところで、伊東は慶応3年、九州に旅立つ前にも、酒を酌み交わした同志との別れに涙しています(「世の憂きに濡るる袖さへ人はただ今の別れの涙とや見ん」「ますらおの袖の涙は別れ路に濡るるものとは思はざりけり」こちら)。長州ファンのゲストの方に教えてもらったところによると、吉田松陰もよく泣いていたそうで、この時代、あまり珍しいことではなかったのかも?。

参考:残しおく言の葉草(原本)等(2000.11.14、2003.12.5)
関連:

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別解釈(2004.2.22):
松濤さんから「さはなれ」は「然はなれ」で、強い願望・希望を表している、と解釈してはどうかとのご意見と試訳をご投稿いただきました。松濤さんがHP本文への転載を快く了承してくださいましたので、こちらにご紹介いいたしますね。
甲子の歳国の為に都に上らんとて大森の寿留賀楼を出で立て
残し置く言の葉草のさはなれといはで別るる袖の白露

<松濤さん訳>
江戸に残していくあなたへの深い愛情の気持ち、別れ難い気持ちは、手紙に書けるものではありません。どうぞ察してください。どうぞ私がいない間もお元気でいてください。涙が次から次から湧いてきて私の袖を濡らしています。大きな志を果たすために私は上洛します。くれぐれもお身体をお大事にしてください。

おまけ(2004.2.22):
『大辞林』を読んでいたら「ことのはくさ」は「言の葉草(=書簡)」とも「言の葉種(=和歌)」とも書くことがわかりました。伊東のこの歌の場合も、もしかしたら「言の葉種(=和歌)」なのかもしれませんね。

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