11月の「今日の幕末」 HPトップへ
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■破約攘夷(鎖国)奉勅VS開国上奏 【江】文久2年9月30日(1863年11月21日)、幕議において、将軍後見職一橋慶喜は攘夷奉勅問題について、開国論を主張しました。 前日に横井小楠と面会し、決戦覚悟の破約攘夷論(こちら)に服した大目付大久保忠寛(越中守)は、この日、慶喜・老中に面会して春嶽の意見を述べ、破約攘夷を説きました。これに対し、老中は尤もだと納得しました。ところが、慶喜が、ここに至って初めて、破約攘夷を断固退け、開国論を述べました。
慶喜の意見を大久保忠寛から聞いた横井小楠は、慶喜の「卓見と英断」に感服しました <ヒロ> 『続再夢紀事』に引用される慶喜の発言が、あまりに理路整然・迫力があり、当時の幕閣になった気分でノックアウトされてしまいました。慶喜・・・将軍の器ですよね?やっぱり。 管理人のノックアウトされた気持ちをお伝えしたくて、原文のまま引用しました。みなさんはどう感じられたでしょう? 関連:■テーマ別文久2「国是決定破約攘夷奉勅VS開国上奏」 ■越前藩日誌文久2 「大久保一翁」 「横井小楠」 <参考>『続再夢紀事』一、『徳川慶喜公伝』(2003.11.5) ■守護職VS幕閣 【江】文久2年9月30日(1863年11月21日)、会津藩士小室金吾が越前藩邸を訪問しまし、近々の守護職江戸出立を知らせましたた。 応接の中根靱負(雪江)に対して、小室は次のように述べました。 上京出発を見合わせているのは鎖国・開国の幕議が決定しないためである。しかし、近日になって老中からしきりに出発を催促される。先日建白した鎖国・開国については幕議はどのように決定されたのか、この議の決定がなければ出発の期日は定め難いというと、老中からは、閉鎖の議は慶喜上京して担当するので、守護職はそのような事まで責任を負う必要はないといわれた。そこで、近々出発するつもりである。 関連:■テーマ別文久2「容保VS幕閣」、「容保の上京」 <参考>『続再夢紀事』一、『徳川慶喜公伝』(2003.11.5) |
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