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文久2年9月30日(1862.11.21)
【江】開国か鎖国か(5)一橋慶喜、開国論を主張。

■破約攘夷(鎖国)奉勅VS開国上奏
【江】文久2年9月30日(1863年11月21日)、幕議において、将軍後見職一橋慶喜は攘夷奉勅問題について、開国論を主張しました。

前日に横井小楠と面会し、決戦覚悟の破約攘夷論(こちら)に服した大目付大久保忠寛(越中守)は、この日、慶喜・老中に面会して春嶽の意見を述べ、破約攘夷を説きました。これに対し、老中は尤もだと納得しました。ところが、慶喜が、ここに至って初めて、破約攘夷を断固退け、開国論を述べました。

「万国一般天地間の道理に基づきて互に好しみを通ずる今日なれば、独日本のみ鎖国の旧套を守るべきにあらず。故に我より進んでも交りを海外各国に結ばざるを得ずとの趣旨を叡聞に達する積りなるか。

畢竟今日の条約たる、最初阿部伊勢(=開国時の首席老中阿部正弘)が鎖国の旧見を脱せずして、姑息の処置に及びしより続いて、堀田備中(老中堀田正睦)井伊掃部(大老井伊直弼)の輩其姑息を襲ひ、遂に墨夷(=アメリカ)の虚喝に怖れ、勅許をも待たずして調印するに至りしものなれば、不正といはば不正にもあるべけれど、既に取交はしたる上は、これを何とかすべきや。只万国並に交通する外に致し方あらざるなり。

然るに此節、従前の条約は不正なれば破却すべしとの議あれど、是は内国人に在てこそ、しかいいもせめ、外国人に在ては政府と政府との間に取り交わせたる条約なれば決して不正とはいわざるべし。故に仮令我より談判に及ぶも其承諾せざるは鏡を懸て見るより明らかなり。

又必戦の覚悟を定むべしとの議(注:春嶽-小楠の論)も、彼れ(=外国)我(破約の)談判を承諾ぜずして兵端を開かば、やがて彼れ(=外国)は曲にして我(=日本)は直なりというにあるべけれど、彼既に不正の条約とせざる上は、却て之(=条約)を破らんとするかた(=日本)を曲としこれを守らんとするかた(=外国)を直とすべし。若(もし)さもあらば諺にいう水掛論にて其曲直は一定する期あるべからず。故に斯る事よりして戦を開かば、天下後世之を何とかいわん。仮令我其戦に勝ちても名誉とはすべからず。況んや敗じくを取るに於てをや。

また諸侯を会同すべしとの議も、諸侯若(もし)時勢に適せざる愚論を申出なば、如何はすべき。政府(=幕府)は却て説諭の労を執らざるべからず。是拙者が同意する事能わざる所以なり。

今度斯る意見を立しは、既に幕府をなきものと見て、日本全国の為を謀らんとするにあり。故に不正の条約なれば破却すべし、諸侯を会同すべしなどいえる如く、時論に皇后せんとするものとは同日の論にあらず。拙者の決心斯の如し。此上は春嶽殿にもあれ其他の人にもあれ、意見あらば速に説破せらるべし、素より拙者の望む所なり」

慶喜の意見を大久保忠寛から聞いた横井小楠は、慶喜の「卓見と英断」に感服しました

<ヒロ>
『続再夢紀事』に引用される慶喜の発言が、あまりに理路整然・迫力があり、当時の幕閣になった気分でノックアウトされてしまいました。慶喜・・・将軍の器ですよね?やっぱり。

管理人のノックアウトされた気持ちをお伝えしたくて、原文のまま引用しました。みなさんはどう感じられたでしょう?

関連:■テーマ別文久2「国是決定破約攘夷奉勅VS開国上奏」 ■越前藩日誌文久2 「大久保一翁」 「横井小楠
<参考>『続再夢紀事』一、『徳川慶喜公伝』(2003.11.5)

■守護職VS幕閣
【江】文久2年9月30日(1863年11月21日)、会津藩士小室金吾が越前藩邸を訪問しまし、近々の守護職江戸出立を知らせましたた。

応接の中根靱負(雪江)に対して、小室は次のように述べました。

上京出発を見合わせているのは鎖国・開国の幕議が決定しないためである。しかし、近日になって老中からしきりに出発を催促される。先日建白した鎖国・開国については幕議はどのように決定されたのか、この議の決定がなければ出発の期日は定め難いというと、老中からは、閉鎖の議は慶喜上京して担当するので、守護職はそのような事まで責任を負う必要はないといわれた。そこで、近々出発するつもりである。

関連:■テーマ別文久2「容保VS幕閣」「容保の上京
<参考>『続再夢紀事』一、『徳川慶喜公伝』(2003.11.5)


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