11月の「今日」 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ

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文久2年10月1日(1862.11.22)
【江】攘夷奉勅:春嶽、登城。慶喜の開国上奏論に同意
【江】慶喜に上京猶予の朝命、届く/松平容保に上京出発の暇
【京】近衛関白、上京を促す宸翰を薩摩藩国父島津久光に下す
【京】土佐藩・長州藩急進派、親兵設置を協議

■破約攘夷奉勅VS開国上奏
【江】文久2年10月1日、春嶽は登城して、慶喜に直接、その開国論の主意を確認した上で、開国上奏方針に同意しました。

春嶽は。 9月27日に辞職を決意して登城を停止していました(こちら)が、この日の朝、春嶽は横井小楠を呼び出し、昨夜大久保一翁(忠寛)から聞いた慶喜の意見(国家百年の計に立つ(幕府を亡き者とみる日本全国の為の)開国論(こちら)を確認すると、登城することにしました。これを聞いた小楠は、<「開国にあらされハ天地間の道理ニ適ハさる事」は予てから言上してきた通りですが、「これハ其人ニあらされハ行はれ難かるへしと考え」るゆえに、先日来、「条約破却云々の議」を進めてきました。しかし自分は「人を視るの眼識ニ暗く、今般の失敗」を招いてしまい、慙愧に耐えません。今日、橋公ニ面会されたなら、平四郎(=小楠のこと)が深く恐れ入っていると仰せください。>と言って退座したそうです。

登城した春嶽は、慶喜に会って直接開国論の主意を聞いたうえで、同意を示すと、慶喜は大変喜びました。

二人の会話はこんな感じ↓
春嶽 近々御上京の際、朝廷へ奏上される予定の御主意を、昨夜、大久保越中の許で横井平四郎が承り、今朝、説明を受けたので、大意は承知しているが、委曲を聞かせてほしい。
慶喜 (詳細を話した上で)、「何分一歩たりとも進む方なれハ奉承すへき、退く方なれハ何処までも分疏」する決心である
春嶽 そのような御定見があるのであれば、同意しよう
慶喜 (殊の外喜んで)、「当節開国論を主張すなどと世上に流伝しては忽ち大害を惹起すべし故に、此主意は是迄周防(板倉勝静)越中(大久保忠寛)の外には相談せし人」はない。先日来、会津藩が、攘夷確定の幕議を得たうえでなければ上京し難いと主張してきたが、有の儘を語れば他に漏洩する恐れもあるので、やはり聞き捨てにしておいた。そのため、何度も何度も催促されて殊の外困却した

同日、京都守護職松平容保に上京出発の暇が申し渡されました。

<ヒロ>
うぅ・・・。会津藩って(涙)・・・政治的には期待されていませんね・・・。

容保は、5月3日、春嶽より先に幕政参与になっているですが、幕府の目的は会津藩の兵力だったようで(こちら) 当初からその政治的能力は期待されなかったようです。春嶽は老中・大目付らと会見がひきもきらなかったのに対し、容保は登城してもさしたる用がなかったようで、気を使った春嶽が老中に容保も同席させてはどうかと提案したほどでした(こちら)

そんな容保は、京都に先発させた家臣の情報分析をもとに、鎖国・開国の国是について三港外閉鎖の攘夷の建白をしたのですが(こちら)、幕閣に真剣に議論された気配もありませんでした。(まぁ、確かに、春嶽/小楠の「攘必戦・破約攘夷→公議→自主開国論」や慶喜の「既に幕府をなきものと見て、日本全国の為を謀らん」ための開国論」に比べれば、折衷案的で、迫力には欠けるとは思いますが)。で、攘夷かどうかはっきりせねば上京できないと迫っても、老中板倉勝静には、<京都守護職にそんなことは求めていないので、国事については後で上京する慶喜に任せて、さっさと出発するように(超意訳^^;)>といわれる始末でした(小室金吾が中根靱負に語った言葉)。そして、会津藩は、その慶喜には、秘密漏洩を心配されるとは・・・信頼されてなかったんですねえ^^;。ま、慶喜は開国論については、前日までは、春嶽に対しても本心を明かさなかったわけですけど・・・。結局、板倉は慶喜から開国論を打ち明けられていたので、容保の攘夷論にコメントするわけにもいかなかったのでしょうか(秘密漏洩も心配だし)。それとも、本気で、守護職の任務だけをまっとうしてれればいいんだ、と思っていたのでしょうか。どちらもありそう・・・。

なんだかこの先の容保(会津藩)と慶喜や勝静とのぎくしゃくした関係を予感させるできごとですねえ・・・。

参考:『続再夢紀事』一、『七年史』(2003.11.22)
関連■テーマ別文久2「国是決定:破約攘夷奉勅VS開国上奏「容保VS幕閣・春嶽」■守護職日誌文久2 ■越前藩日誌文久2 

■慶喜の上京延期
【江】文久2年10月1日、朝廷から、近々別勅使を派遣するので、一橋慶喜の上京を11月以降に延期するようにとの沙汰が届きました

上京延期の沙汰(こちら)は薩長土急進派の献策によるものでした。沙汰を受け、慶喜の派遣はいったん延期されることになります。そして、開国論で一決した幕議は再度揺れることになります・・・。

なお、この日、長州藩世子毛利定広も慶喜に面会して上京延期を勧めています。

参考:『続再夢紀事』一(2003.11.22)
関連:■開国開城「第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題」■テーマ別文久2「慶喜の上京延期問題

■孝明天皇と薩摩藩
【京】文久2年10月1日、関白近衛忠煕は、公武合体派の薩摩藩国父島津久光に上京を促す孝明天皇の宸翰を久光に下しました。

関白宛の孝明天皇の宸翰は以下の通り
「・・・方今事体甚混雑、長土両藩在京、専ら周旋深大幸には候え共、依事意区々に相成り候趣も有之、心配之事に候。且一橋刑部卿上京、此儀に付ても三郎在京候えば、尋度次第も種々可有之。何卒無違背更に早々上京之様分て頼入度と議奏より以一紙申達有之候え共、為念申入置度、尚勘考早々通達頼入存候事」(『維新史』引用の島津家所蔵宸翰写より。旧字は適宜当用漢字に、カタカナは平かなに直しています)

『徳川慶喜公伝』によれば、この宸翰は、公武合体派の近衛関白が孝明天皇に内奏して下されたものだそうです。

近衛関白は、久光に<そこもと出発後は長州・土佐両藩が色々申立てるため、多端であり、心配困苦している。今度別勅使もやはり東下させることになり、これに関しても非常に心配している>(『維新史』引用の島津家文書収録資料より意訳)と心情を打ち明け、上京を促す一書を添えて、宸翰の写しを送りました。書簡は在京薩摩藩士(激派)の藤井良節が携えて鹿児島に向いました。

<ヒロ>
孝明天皇は頑強な破約攘夷派(外国嫌い)でしたが、公武合体派でもありました。

参考:『徳川慶喜公伝』2(2003.11.22)
関連■薩摩藩日誌文久2

■親兵設置問題
【京】文久2年10月1日、土佐藩と長州藩の激派は親兵設置提議を協議しました。

武市半平太・本山只一郎が前田孫右衛門(長州藩)の寓居で親兵設置について話し合いました。(前日、藤井良節にはこの日の会合が知らされましたが、薩摩藩からは誰もこなかったようです。良節は近衛関白から宸翰の写しを渡され、会合どころでなかったのかも???)。

<ヒロ>
諸藩から選抜した者を朝廷の親兵として京都守護にあたらせるようにという提案です。これを勅使の沙汰につけくわえようというわけです。

当然のことながら、幕府は朝廷の兵権回復を恐れ、表向きは寄せ集めとなる親兵は実効がないと反対することになります。京都守護職として赴任する会津藩も大反対します。親兵設置問題は文久3年4月ごろまで尾をひくことになります・・・。

出張前で時間ぎれです〜。親兵設置問題の背景はいずれ〜。

参考:『徳川慶喜公伝』2、『維新土佐勤王史』(2003.11.22)
関連:■開国開城「第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題」■テーマ別文久2「親兵設置問題


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