11月の「今日」 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
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■攘夷奉勅問題(春嶽、登城スト中) 【江】文久2年9月29日、越前藩政治顧問の横井小楠は側用取次の大久保忠寛(一翁)に必戦覚悟の破約攘夷論を説明しました。忠寛は納得し、幕閣の説得を引き受けました。 この日、越前藩では、必戦覚悟&破約攘夷論が容れられずに27日から登城停止中の松平春嶽の総裁職辞表を起草しました。しかし、慶喜の上京出発直前に辞表を提出してその妨げになることを恐れ、提出は慶喜出発後に行うことにしました。 さて、小楠が側用取次の大久保忠寛(一翁)に呼び出されて屋敷に行くと、忠寛は25日に小楠が慶喜邸で発議した必戦覚悟&条約破却論に不審があるので尋ねたいと言い出しました。小楠の説明にすっかり納得した忠寛は、閣議の説得は自分が引き受けるので、閣議が破約攘夷に変更になった際は春嶽の登城再開に尽力してほしいと頼みました。小楠は、閣議が変更すれば、慶喜に、書面をもって、破約・全国会同等々に同意であることを表明し、早々に登城してほしいことを書き添えてほしいと述べました。 参考:『続再夢紀事』一(2003.11.20) 関連:■テーマ別文久2「国是決定破約攘夷奉勅VS開国上奏」 ■越前藩日誌文久2 「大久保一翁」 「横井小楠」 ■慶喜の上京延期 【江】文久2年9月29日、越前藩に、前土佐藩主山内容堂から慶喜の上京出発を一時延期するよう勧告する書簡が届きました。その理由は大目付岡部長常(駿河守。長崎奉行・外国奉行を歴任した開明派幕臣)に説明するので、岡部に来邸するよう伝えてくれと書かれていました。 <ヒロ> 慶喜の上京は10月3日と決まっていましたが、京都では、土佐藩激派武市半平太らが主導する一橋慶喜の上洛延期運動が行われており、26日には延期の沙汰が下っていました(こちら)。いまだ沙汰は江戸に到着していませんが、山内容堂は、京都藩邸からの情報で、沙汰が下る可能性を既に知っていたのではないでしょうか。万が一にも慶喜と行き違いになってはまずいと、一報する必要を感じたのではと思います。容堂は春嶽が登城停止中であるために、直接岡部長常に話そうとしたのだと思います。 参考:『続再夢紀事』一(2003.11.20) 【京】文久2年9月29日(1863年11月20日)、新所司代の牧野忠恭が入京しました。 参考:『徳川慶喜公伝』2(2003.11.20) 関連:■開国開城「勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革」■「京都守護職事件簿」:「文久の幕政改革と京都守護職拝命」■テーマ別文久2年:「守護職就任」「所司代人事」 |
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