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◆10/17【京】大宮今出川に、長州藩追討を止め、会津藩を討伐すべしとの文を貼掲する者あり/朝廷、老中稲葉正邦に対し、出陣に際し、京都守護職松平容保・所司代松平定敬に引継ぎを命じる【天狗諸生】幕府軍再び那珂湊を攻撃。 ◆10/18【坂】征長副将松平茂昭・大目付永井尚志、京都を発して大坂に著陣 ◆10/19【京】一橋家雇原市之進、会津藩士外島機兵衛に、在京水戸藩士に過激な者がいることがわかれば密報を依頼/老中稲葉正邦、征長出陣の為参内。(以上、綱要) ☆京都のお天気:快晴夕陰雨下(嵯峨実愛日記) >第一次幕長戦へ ■恭順謝罪の周旋(尾張藩) 【岩国】元治1年10月20日、征長総督徳川慶勝の密使、僧侶鼎州・機外及び藩士八木銀次郎は、長州支族・岩国領主吉川経幹(監物)と会談し、藩主父子が恭順謝罪すれば、必ず寛大な処分になると説きました。 <ヒロ> 吉川経幹は恭順説です。その情報を得ての密使だと思われます。慶勝は、これから征長の軍議を開こうという時ですが、陰では避戦の道を探っていたことになりますね。鼎州らが京都を出立した日付や陸路・海路いずれを使ったのか不明ですが、18日には岩国に到着していたようです。密使は、軍事委任状が京都に到着した10日前後には出立していたかもしれません。慶勝が軍事委任状をしつこく求めた背景には、この腹案があったということなのかも。 参考:「吉川経幹周旋記」『稿本』(綱要DB 10月20日条)(2018/8/20) ■征長準備 【坂】元治1年10月20日、軍艦奉行勝海舟は、大目付永井尚志・軍目付と会い、征長戦への船の融通について話し合いました。 このころ、勝に融通できる船は、観光船(中古の練習船で、要修理)だけでした。これより先の10月17日、征長総督徳川慶勝及び目付戸川鉾三郎より、戸川の芸州出張(23日に長州藩家老に征長軍進発を申し渡しを予定)に船を回すよう要請されましたが、観光船が「大破」しており、当月中は無理だと返答していました。しかし、翌18日には、慶勝から、戸川を26日までに芸州に出張させるので、是非、船を出すよう重ねて要請がありました。さらに、同じ日に、軍目付三名が軍艦を拝借したいと言ってきましたが、軍艦はないと回答。また、(仲良しの)越前藩も、老中に頼んで大坂城代に観光船拝借を命じてもらったと言ってきました。こうやって、あちこちから依頼されても、「大破」した観光船しかないので、勝は、江戸に廻船を要請しました。しかも、19日、戸川の芸州出張に伴う船の融通に関する征督府の指示は前後し、あまりのことに「今万事この通りで、錯誤のみ」だと日記に記したほどでした。 さて、この日、勝は、永井に対し、観光船で内海(=瀬戸内海)の御用は何度でもするが、外海へは「大破」のため用立てかねると断りました。軍目付三名にも再び会い、小倉まで送ることを約束しましたが、彼らも、「万事御差図相違」うので「大当惑」だと言っていたそうです。夕方には、永井から、軍目付の萩出張は、薩摩の船便の利用を頼むべきかと言ってきたので、吉井孝輔に書状を認めたそうです。 <ヒロ> う〜ん、混乱しています。そして、こんなときに、海軍操練所に修理の必要な中古船一隻しかないなんて・・・無計画すぎる。(しかも、越前藩は結構前から汽船借り上げを要請していたというのに) 【坂】元治1年10月20日、勝海舟は、越前藩士毛受鹿之助から、征長副将松平茂昭が勝を借り上げて九州出張へ「同行・相談」したいと老中に言上するつもりだが、九州まで来てくれるかと聞かれ、「命下らば辞せず」と答えました。 茂昭は、9月にも、東下中の老中阿部正外に勝の重用を促していましたが、そのときは保留にされていました(こちら)。 参考:『勝海舟全集1 幕末日記』p167-169 【京】元治1年10月20日、老中稲葉正邦が、征長出陣のため、京を発して帰藩しました。(綱要) 関連:テーマ別元治1■第一次幕長戦へ(元治1) ■勝海舟@元治1年 その他【天狗諸生】追討軍中の水戸藩士戸田銀次郎等、密に榊原新左衛門の麾下と止戦に関し交渉を開始。(綱要) |