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元治元年10月21日(1864年11月20日)
【岩国】吉川経幹、征長総督徳川慶勝の密使に嘆願書を託し、家臣を上坂させる
【坂】薩摩藩士高崎五六、長州藩支族・岩国領主吉川経幹の家老等に対し、
長州恭順周旋に対する諸藩の好反応や西郷隆盛の芸州出張計画を報じる。
【長州】藩主毛利敬親、藩内諸隊総督に、恭順謝罪の決意を告げて解散を諭す。

☆京都のお天気:晴曇(嵯峨実愛日記)

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■長州藩支族を通した恭順謝罪
〇尾張藩の周旋

【岩国】元治1年10月21日、長州藩支族・岩国領主吉川経幹(監物)は、征長総督徳川慶勝の密使に対し、三家老への厳罰(首級差し出し)を以て藩主父子に寛大な処分を乞う嘆願書を認めると、嘆願書を総督府に提出させるために、家臣加田喜助及び大草終吉を密使に附して上坂させるとともに、用人安達十郎右衛門を萩に遣わし、事情を宗藩に報じました。

密使、僧侶鼎州・機外及び藩士八木銀次郎は、前20日に経幹(監物)と会談し、藩主父子が恭順謝罪すれば、必ず寛大な処分になると説いていました(こちら)

参考:「吉川経幹周旋記」『稿本』(綱要DB 10月20日条)(2018/8/21)

〇薩摩藩の周旋
【坂】元治1年10月21日、薩摩藩士高崎五六(猪太郎)は、長州支族・岩国領主吉川経幹(監物)家老に書を認め、長州藩が恭順すれば、諸藩が寛大な処置になるよう尽力すること、西郷吉之助が、恭順周旋のため、芸州に出張する計画であることを知らせました

(高崎五六の手紙のてきとう要約)
(岩国・芸州への出張を終えて)・・・着坂したところ、幸い、西郷吉之助ら2,3名が下坂していました。・・・これまでの監物殿のご尽力の次第や山口への御出張御周旋により、10中8,9、御趣意(=恭順)通り行われることの委細を、同藩(=薩摩)有志や越前・肥後・尾張へも伝えたところ、誠に望外のことと、一同、監物殿の御忠誠に感服し、この上は、(長州が)恭順を尽くし、罪は罪として服すようであれば、たとえ、幕府が苛酷な処置を主張しても、諸藩は決して承知いたさず、尽力保護すると大方決定しました。・・・(略、略)・・・自分も再び出張するつもりだったが、京都が手薄になるので留守をするよういわれました・・・委細の事情は西郷吉之助に話し、付託しました・・・(西郷は)22日の軍議で決定すればすぐに芸州に出かける積りで、尊藩にも赴くかもしれませんので、御含み置きください。・・・(略)

(高崎五六の周旋)
高崎は、9月24日、既に岩国で吉川経幹に宗藩の恭順説得を周旋していた筑前藩士喜多岡雄平とともに京都を発し、30日に海路岩国に入り、吉川経幹の家士香川諒・横道八郎次等と会し、薩摩藩に周旋尽力をさせてくれと申し入れていました(こちら)。その後、喜多岡は本国に復命するために筑前に向かいましたが、高崎は、首尾を芸州で待っていました。経幹は、10月2日、高崎に対して周旋を依頼する書を認め、家臣を芸州に送って届けさせていました。

<ヒロ>
肥後藩って・・一戦も交えない恭順謝罪案や雄藩が手を組んで幕府に対峙することには賛成しそうもないのですが・・・。

参考:10月21日付今田靱負等宛高崎兵部書簡「吉川経幹周旋記」『稿本』(綱要DB 10月21日条 no79-83)(2018/8/21)

〇長州藩
【長州】藩主毛利敬親は、藩内奇兵・膺懲・御楯・集義・荻野・義勇・八幡・真武・旧遊撃(武備恭順派)の諸隊総督に、恭順謝罪の決意を告げて解散を諭しました。(綱要)

関連:テーマ別元治1■第一次幕長戦へ(元治1)

■征長準備
【坂】元治1年10月21日、九州出陣を命じられた征長副将松平茂昭は、大阪城に、下関口攻撃担当の9藩の重臣を招集して軍議を開きました。

小倉藩が作戦を提案したものの、他藩(筑前・肥後・柳河・佐賀等)は藩議が未だ明らかでないとの理由で明言しなかったそうです。(やる気のなさが感じられるような・・・)

参考:『維新史』四p140(2018/8/21)

その他
・浪士川瀬太宰(元膳所藩士)等、長州藩に亡命(綱要)

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