「今日」トップ 元治1年10月 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ

◆10/21へ  ◆10/24へ

元治元年10月22日(1864年11月21日)

【坂】征長総督徳川慶勝、大坂城で軍議を開き、11月11日の布陣完了・18日の攻撃開始を命令。
【坂】征長副将松平茂昭は、総督徳川慶勝に対し、長州謝罪の際の三策を示す。
【坂】軍艦奉行勝海舟、大坂城代より、江戸表での御用のため帰還を命じられる

☆京都のお天気:晴午刻雷鳴暴雨烈風午後快晴(嵯峨実愛日記)

>第一次幕長戦へ
■総督府の動き

【坂】元治元年10月22日、征長総督徳川慶勝は、大坂城に副将以下大目付・軍目付・使番及出征諸藩の重臣等を召集し、軍議を開き、11月11日までの布陣完了・18日の攻撃開始を命じました。

この際、慶勝は、改めて長州藩征討に関する朝旨を伝え、将軍家茂の委任状を示し、軍令状・下知状を与えたそうです。

参考:『維新史』四p139-140(2018/8/21)

■総督府の方針確認
【坂】元治元年10月22日、九州に出張・指揮する征長副将松平茂昭は、総督徳川慶勝にと面会し、長州謝罪の際の三策を書面を示し、もっともだと理解を示されました。

茂昭が出した書付のてきとう訳
攻口に(諸侯)が参集または攻撃に及んだ際、大膳父子が面縛退城して謝罪を申し出れば、父子は討ち手の陣営で預かり置き、早急に総督の御本陣に御達し申し、御指図を待つ
父子が開城し、一族の者あるいは大身の人質を送って謝罪する旨を申し出れば、そのことを総督に申し達するべきだが、真実の謝罪であれば城地を明け渡すよう申し付ける
開城にも及ばず、一通り使者をもって謝罪を申し出れば、前文の趣を申し諭し、進入攻撃を差し止めぬ心得である

<ヒロ>
茂昭が大坂に着陣したのは18日。その翌19日には、家臣が尾張藩附家老成瀬等に会って種々申し入れ・確認をしていますが、その中に、長州が謝罪をしても面縛開城以外は攻撃を緩めないという方針の確認がありました(こちら)。そのときの尾張藩の反応が「胡乱」だったので、改めて書面で確認したのだと思います。どうやら、薩摩の長州恭順周旋策は越前藩首脳には伝わっていない模様です。

参考:『越前藩幕末維新公用日記』(本多修理日記)p50(2018/8/26)
関連:テーマ別元治1■第一次幕長戦へ(元治1)

>勝海舟江戸召喚
【坂】元治元年10月22日、軍艦奉行・勝海舟は、大坂城代から、江戸での御用のため早々に帰府するようにとの幕命を達せられました。


<ヒロ>
勝は、ここ何日か、征長軍のあちこちから船の融通を頼まれ、つい一昨日には、越前藩から九州出陣に同行するよう依頼されて、本人も「命令が下れば」と前向きでした(こちら)。突然のことにさぞ驚いたと思います。ただし、勝は、先日、帰府した老中阿部正外のことを高く評価しているので、阿部が、幕政改革のために自分を呼び戻すのだと思ったのかも・・・・。

参考:『勝海舟全集1 幕末日記』p169(2018/8/21)
関連:テーマ別元治1■勝海舟@元治1年

◆10/21へ  ◆10/24へ

「今日」トップ 元治1年10月 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ