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☆京都のお天気:晴午刻雷鳴暴雨烈風午後快晴(嵯峨実愛日記) >第一次幕長戦へ ■総督府の動き 【坂】元治元年10月22日、征長総督徳川慶勝は、大坂城に副将以下大目付・軍目付・使番及出征諸藩の重臣等を召集し、軍議を開き、11月11日までの布陣完了・18日の攻撃開始を命じました。 この際、慶勝は、改めて長州藩征討に関する朝旨を伝え、将軍家茂の委任状を示し、軍令状・下知状を与えたそうです。 参考:『維新史』四p139-140(2018/8/21) ■総督府の方針確認 【坂】元治元年10月22日、九州に出張・指揮する征長副将松平茂昭は、総督徳川慶勝にと面会し、長州謝罪の際の三策を書面を示し、もっともだと理解を示されました。 茂昭が出した書付のてきとう訳
<ヒロ> 茂昭が大坂に着陣したのは18日。その翌19日には、家臣が尾張藩附家老成瀬等に会って種々申し入れ・確認をしていますが、その中に、長州が謝罪をしても面縛開城以外は攻撃を緩めないという方針の確認がありました(こちら)。そのときの尾張藩の反応が「胡乱」だったので、改めて書面で確認したのだと思います。どうやら、薩摩の長州恭順周旋策は越前藩首脳には伝わっていない模様です。 参考:『越前藩幕末維新公用日記』(本多修理日記)p50(2018/8/26) 関連:テーマ別元治1■第一次幕長戦へ(元治1) >勝海舟江戸召喚 【坂】元治元年10月22日、軍艦奉行・勝海舟は、大坂城代から、江戸での御用のため早々に帰府するようにとの幕命を達せられました。 <ヒロ> 勝は、ここ何日か、征長軍のあちこちから船の融通を頼まれ、つい一昨日には、越前藩から九州出陣に同行するよう依頼されて、本人も「命令が下れば」と前向きでした(こちら)。突然のことにさぞ驚いたと思います。ただし、勝は、先日、帰府した老中阿部正外のことを高く評価しているので、阿部が、幕政改革のために自分を呼び戻すのだと思ったのかも・・・・。 参考:『勝海舟全集1 幕末日記』p169(2018/8/21) 関連:テーマ別元治1■勝海舟@元治1年 |