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元治1年4月4日(1864年5月9日)
【京】春嶽の守護職辞任許容&容保再任の朝議。
【京】筑前藩世子黒田慶賛(長知)、退京。攘夷期限設定を朝幕に建議。

☆京都のお天気:晴(久光の日記より)
■春嶽の守護職辞任&容保の再任
【京】元治元年4月4日付の日記に、久光は「越前守護御免、会津再守護被仰付、但軍事総裁ハ御免」と記しました。

<ヒロ>
国力疲弊という問題を抱えている上、3月24日の慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮就任に不安を抱いた会津藩は、3月28日、幕府に対して、容保の病を理由に、軍事総裁職辞任及び守護職辞退の内願書を提出していました。朝廷側は、軍事総裁職罷免は認めたものの、守護職辞退は認めなかったようです。(←軍事総裁職罷免については、さすがに幕府の意見を聞いたと思われます)

<こまかい話>
『続再夢紀事』の4月5日の項目には、この日の慶喜からの書簡の大意として「今日(=4月5日)、御許容の方に御評決・・・ニ條殿より御内々仰せ遣はされたり」とありますので、久光が得た情報は、翌5日朝議に先立って内々に決まった内容というところでしょうか。

関連■テーマ別元治1「春嶽の守護職辞任問題
参考:『続再夢紀事』三p75-77, 『玉里島津家史料』ニp759(2010/10/7)


■諸侯の帰国&横浜鎖港問題
京】元治元年4月4日、筑前藩世子黒田慶賛(長友)が京都を発して帰国しました。その際、慶賛は、朝廷・幕府に対し、横浜鎖港の期限を定めること、長州藩の処置を寛大にすることを建議しました

慶賛は、先ごろ、朝廷に対し、外国船来襲に備えるため帰国したいと願い出ており、朝廷は、以下の沙汰を下して帰国を許可していました。

                              松平下野守
久々退京苦労被思召候へ共、当時節柄の儀、今暫く在留有之候様、叡慮に被為在候処、異船長州襲来の風聞切迫に有之、隣国の儀、海岸防御手配も仕度、且長崎表警衛も有之、帰国申立の趣、無拠被聞食、如願御暇被下候、御沙汰之事

                              松平下野守
帰国懸ケ長州へ立寄、悔悟之説得精々可尽力、若不承引候節は、帰国の上漸々可説諭之事

参考:『維新史料綱要』五、『七年史』ニp166-168
関連:■元治1「横浜鎖港問題(元治1)」 「長州・七卿処分問題(元治1)」旧参与・諸侯の帰国

【天狗党】水戸藩主徳川慶篤、附家老中山信徴及び家老興津蔵人を老中板倉勝静に遣わし、鎖港の幕議決定の要を入説。(『維』五)関連:「横浜鎖港問題(元治1)」

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