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元治1年4月3日(1864年5月8日)
【京】総督・指揮:慶喜、水戸藩武田耕雲斎に上京助力を依頼/
佐久間象山を海陸御備向掛手付御雇に登用
【京】春嶽の守護職辞任:中根雪江、朝廷有力者をめぐり、速やかな解任を請う
慶喜、書を以て春嶽に辞職後の日々登城を要請
【京】諸侯帰国:阿波藩主蜂須賀斉裕、筑前藩世子黒田慶賛(長知)、津藩世子藤堂高潔、
帰国の挨拶に参内。
【京】長州処分:朝廷、慶賛に長州藩の恭順説得の沙汰を下す。

☆京都のお天気:晴(久光の日記より)
■慶喜の総督・指揮就任
【京】元治元年4月3日、禁裏守衛総督一橋慶喜は、実家の水戸藩執政武田耕雲斎に書を送り、禁裏守衛総督・摂海防御指揮就任を報せるとともに、率兵上京して自分を補佐するよう依頼しました。

慶喜の書簡のポイントは以下の通り。
(本文)
今般、「禁裏御守衛総督、其他摂海防御之大任」を命じられ、「本意至極」と存じる。
「源烈(=9代藩主徳川斉昭・慶喜の父)之御遺志ニ基き、尊攘之微意も相貫」けるだろうと悦んでいる。
容易ならざる時節であり、「開鎖議論、国是紛糾之折柄、人心一定不致、朝夕変化之世態」に大任を仰せつかり、痛心に堪えない。
(別紙)
「兵食不足之身分」に「大任」を命じられたので、彼是苦心致しているが、「此儀、兎も角も実家之御厄介を以て相勤候外無之と」存じる。
兼ねてから申し入れておいた人数の他、手許用向を申し付けたいので、市之進・孫太郎(=原市之進・梅沢孫太郎)を是非雇いたい。主膳正(=在京水戸藩執政・大場一真斎)に相談し、公辺にも御断り申し上げ、拝借を願うので、中納言様=(水戸藩主徳川慶篤。慶喜実兄)にも宜しく申し上げてほしい。
其許も都合がよければ、人数200〜300人を率いて出京し、小子を扶助して国家の為、「烈公(=斉昭)之御遺志」を承継されるよう頼みいる。もし、伊賀守(=耕雲斎)に差し支えがあれば、「勤王正議義勇之もの、又は吏才有之もの、又は武術情熱之もの」を御世話給わりたい。どうにか200〜300人ほど養い申したく存ずる。然るべく周旋を頼みいる。
(参考:『徳川慶喜公伝』史料編ニより作成)

<ヒロ>
耕雲斎は、文久2年12月の慶喜上京時にも、幕命により、随従して上京しています(翌3年5月に東帰)。彼は水戸藩尊攘「激派」(注1)で、もちろん鎖港攘夷派です。その彼に対し、烈公の遺志継承を強調した上で「勤王正議義勇之もの」等200〜300人を率いて上京して欲しいと依頼する・・・実現したら、京都には鎖港攘夷派が集まりそうです。朝廷(孝明天皇)の強い希望で守護職再任しそうな会津藩も鎖港攘夷派ですし。

慶喜の禁裏守衛総督願望に対する宗城の疑惑(「其身政府を遁れ、且、禁闕に潜み、安心故、水始之入説にて(横浜鎖港を)厳敷関東へ懸合、終ニ人心之帰し候様、密策、不臣之謀計」(『伊達宗城在京日記』p385)も、あながち、全くの憶測だとはいえない感じもしてきますよね。(後半部分はともかくとして・・・)。

ただ、少し先回りしますと、慶喜がかくも頼りにした耕雲斎は、結局、上京することはありませんでした。水戸藩は天狗党の筑波挙兵への対応でそれどころではなかったからです。(この時点で、まだ慶喜には報せが届いていなかったのですね・・・。)

耕雲斎は「激派」の要人ですが、天狗党の筑波挙兵には反対で、当初は、鎮撫に力を尽くそうとしました。しかし、ほんとうに色々な経緯があり、10月、幕府追討軍・水戸藩保守派との交戦に敗れた天狗党の首領にかつぎあげられてしまいました。このとき、天狗党は、烈候の息子であり、禁裏守衛総督を務める慶喜を頼って、天皇に尊王攘夷の素志を訴えることを決め、11月、中山道を西上し始めました。途中、幕命を受けた諸藩の追撃・街道封鎖にあい、北に迂回して、京を目指しましたが、12月、越前の敦賀まで至ったところで、頼みの慶喜が京都からの追討軍を指揮していることを知り、望みを絶たれて、加賀藩に降伏しました。加賀藩は天狗党に同情的でしたが、身柄を受取った幕軍は天狗党を義兵とは見なさず、厳寒の中ニシン蔵に下帯一つで押し込めるなど過酷な扱いをしました。そして、翌元治2年2月、幕命により、耕雲斎を含む300数十名は斬首されました・・・。

耕雲斎も、そして彼が率いた天狗党も、元々はまさに「烈公之御遺志」である「尊攘之微意」を貫こうとした人々であり、慶喜が求めた「勤王正議義勇之もの、又は吏才有之もの、又は武術情熱之もの」だったんじゃないかと思います。

耕雲斎や天狗党のこの後を思って、この書簡を読むと、せつなくなってしまいます。

注1 元々、9代藩主徳川斉昭の下で藩政改革を推し進めた尊攘改革派。水戸藩に戊午の密勅が下ったとき、朝廷返納派(「鎮派」)と返納拒否派(「激派」)に分かれた。桜田門外の変、坂下門外の変を起こした人びとや、大場一真斎・原市之進・梅沢孫太郎ら在京水戸藩士も「激派」である。

(2010/10/6)

【京】元治元年4月3日、幕府は松代藩士佐久間象山に海陸備向掛手附雇を命じ、扶持20人・手当金15両を支給しました。

長州藩が招聘しようとしているという噂があったので、先手を打って任用したのだそうです。

参考:『維新史料綱要』五、『徳川慶喜公伝』3p33(2010/10/6)

関連:■テーマ別元治1「慶喜の後見職辞職/総督・指揮職就任」

■春嶽の守護職解任
【京】元治元年4月3日、越前藩士中根雪江は、中川宮邸・山階宮邸・近衛邸・二条関白邸を訪ね、朝議において速やかに春嶽の解任の決議をするよう要請しました。

前日の朝議で解任が決まるはずだったのですが、山階宮・近衛前関白が不参のため、朝議自体が開かれなかったそうです。

参考:『続再夢紀事』三p80-81(2010/10/6)

【京】元治元年4月3日、禁裏守衛総督一橋慶喜は、春嶽に対し、書簡を送り、守護職辞職後の日々登営を求めました。

同日付書簡において、慶喜は、前日の朝議で守護職解任が決まらなかったことについて、尚も周旋すると報せました。また、追伸として、今となっては、残念ながら内情を汲み取って辞職の周旋をしていること、解任後は日々登城して、これまでよりも一層尽力してほしいこと、そうでなくては「皇国瓦解之周旋致候様ニ而、天地ニ対し申訳も無之次第」であると記しています。

<ヒロ>
慶喜は、この書簡の宛名を「鋭鼻先生」、自分を「天下大剛情」と署名しています。(追伸部分は「鼻公」「剛」です)

参考:『続再夢紀事』三p84(2010/10/6)

関連■テーマ別元治1「会津藩の守護職更迭問題・春嶽の守護職就任問題

■旧参豫諸侯の帰国

【京】元治元年4月3日、肥後藩主弟長岡良之助(護美)は、越前藩に対し、薩摩・宇和島・肥後の三藩が明後5日にともに朝廷に帰国を願い出ることを知らせました。

この日、良之助は越前藩士中根雪江を呼び出し、次のように語ったそうです。
昨日、宇和島老公(=宗城)と共に島津候(=久光)の許に集まって「帰国程合」を相談した結果、明後5日に三人同道で二条関白殿を訪ね、帰国の御暇を願うことに決まった。
過日来、大蔵太輔殿(=春嶽)の「御出勤」を待って四人同時に御暇を願おうとの心組で、その御約束をしていたが、彼是見合わせているうちに機会を外しては不都合なので、まず三人で願うことになった。
このほど、一橋殿より、「因備水なと もすれハ暴説を唱ふる事あれとも、是らハ自分一身に引受、鎮 すへけれハ御掛念あらせられさる様」、尹宮に言上するよう依頼されたので、昨日、態と宮の許へ参上して、依頼の趣を申し上げたところ、宮も御了承になり、「一橋か左程迄に担当する事なれハ諸侯に御暇を仰せ出されて然るへきなり」と仰せだったので、願い通り、御暇を仰せ出されるだろう。
備前候(=池田茂政・慶喜の異母弟)は来る10日頃に出発・帰国されるそうである。薩・予及び拙者は15、16日ごろ出発の心積もりをしている。
他に所用があり、明日、尹宮(=中川宮)に参上するので、その際、大蔵太輔殿の御内願の筋を速かに決せられるよう、周旋するつもりである。

この日は、宗城からも、三人で帰国暇願いをするに至った事情を報せる書簡が届いています。

参考:『続再夢紀事』三p80-84(2010/10/6)

■諸大名の帰国&長州処分
【京】元治元年4月3日、阿波藩主蜂須賀斉裕、筑前藩世子黒田慶賛(長知)、津藩世子藤堂高潔、帰国の挨拶に参内しました

朝廷は、特に慶賛に対し、長州藩主父子の恭順を説くようにとの沙汰を下しました。

                              松平下野守
帰国懸ケ長州へ立寄、悔悟之説得精々可尽力、若不承引候節は、帰国の上漸々可説諭之事

参考:『維新史料綱要』五、『七年史』ニp165、『伊達宗城在京日記』p415、(2010/10/6

【京】中根雪江、大久保一翁に書簡を送り、慶喜と薩・土・予・越四候との間に隔意が生じ、春嶽が守護職辞任に至った経緯を奉じる(『続』p85-91)↑後日、UPの予定です。一翁〜。

【天狗党】藤田小四郎・田丸稲右之衛門に率いられる筑波勢(総勢170余名)、徳川祖廟の地で天然の要害である日光を目指して筑波出立。(『維』五)■水戸藩かけあし事件簿

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