5月の幕末京都 幕末日誌元治1 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
◆4/2 ◆4/4
☆京都のお天気:晴(久光の日記より) ■慶喜の総督・指揮就任 【京】元治元年4月3日、禁裏守衛総督一橋慶喜は、実家の水戸藩執政武田耕雲斎に書を送り、禁裏守衛総督・摂海防御指揮就任を報せるとともに、率兵上京して自分を補佐するよう依頼しました。 慶喜の書簡のポイントは以下の通り。
<ヒロ> 耕雲斎は、文久2年12月の慶喜上京時にも、幕命により、随従して上京しています(翌3年5月に東帰)。彼は水戸藩尊攘「激派」(注1)で、もちろん鎖港攘夷派です。その彼に対し、烈公の遺志継承を強調した上で「勤王正議義勇之もの」等200〜300人を率いて上京して欲しいと依頼する・・・実現したら、京都には鎖港攘夷派が集まりそうです。朝廷(孝明天皇)の強い希望で守護職再任しそうな会津藩も鎖港攘夷派ですし。 慶喜の禁裏守衛総督願望に対する宗城の疑惑(「其身政府を遁れ、且、禁闕に潜み、安心故、水始之入説にて(横浜鎖港を)厳敷関東へ懸合、終ニ人心之帰し候様、密策、不臣之謀計」(『伊達宗城在京日記』p385)も、あながち、全くの憶測だとはいえない感じもしてきますよね。(後半部分はともかくとして・・・)。 ただ、少し先回りしますと、慶喜がかくも頼りにした耕雲斎は、結局、上京することはありませんでした。水戸藩は天狗党の筑波挙兵への対応でそれどころではなかったからです。(この時点で、まだ慶喜には報せが届いていなかったのですね・・・。) 耕雲斎は「激派」の要人ですが、天狗党の筑波挙兵には反対で、当初は、鎮撫に力を尽くそうとしました。しかし、ほんとうに色々な経緯があり、10月、幕府追討軍・水戸藩保守派との交戦に敗れた天狗党の首領にかつぎあげられてしまいました。このとき、天狗党は、烈候の息子であり、禁裏守衛総督を務める慶喜を頼って、天皇に尊王攘夷の素志を訴えることを決め、11月、中山道を西上し始めました。途中、幕命を受けた諸藩の追撃・街道封鎖にあい、北に迂回して、京を目指しましたが、12月、越前の敦賀まで至ったところで、頼みの慶喜が京都からの追討軍を指揮していることを知り、望みを絶たれて、加賀藩に降伏しました。加賀藩は天狗党に同情的でしたが、身柄を受取った幕軍は天狗党を義兵とは見なさず、厳寒の中ニシン蔵に下帯一つで押し込めるなど過酷な扱いをしました。そして、翌元治2年2月、幕命により、耕雲斎を含む300数十名は斬首されました・・・。 耕雲斎も、そして彼が率いた天狗党も、元々はまさに「烈公之御遺志」である「尊攘之微意」を貫こうとした人々であり、慶喜が求めた「勤王正議義勇之もの、又は吏才有之もの、又は武術情熱之もの」だったんじゃないかと思います。 耕雲斎や天狗党のこの後を思って、この書簡を読むと、せつなくなってしまいます。
(2010/10/6) 【京】元治元年4月3日、幕府は松代藩士佐久間象山に海陸備向掛手附雇を命じ、扶持20人・手当金15両を支給しました。 長州藩が招聘しようとしているという噂があったので、先手を打って任用したのだそうです。 参考:『維新史料綱要』五、『徳川慶喜公伝』3p33(2010/10/6) 関連:■テーマ別元治1「慶喜の後見職辞職/総督・指揮職就任」 ■春嶽の守護職解任 【京】元治元年4月3日、越前藩士中根雪江は、中川宮邸・山階宮邸・近衛邸・二条関白邸を訪ね、朝議において速やかに春嶽の解任の決議をするよう要請しました。 前日の朝議で解任が決まるはずだったのですが、山階宮・近衛前関白が不参のため、朝議自体が開かれなかったそうです。 参考:『続再夢紀事』三p80-81(2010/10/6) 【京】元治元年4月3日、禁裏守衛総督一橋慶喜は、春嶽に対し、書簡を送り、守護職辞職後の日々登営を求めました。 同日付書簡において、慶喜は、前日の朝議で守護職解任が決まらなかったことについて、尚も周旋すると報せました。また、追伸として、今となっては、残念ながら内情を汲み取って辞職の周旋をしていること、解任後は日々登城して、これまでよりも一層尽力してほしいこと、そうでなくては「皇国瓦解之周旋致候様ニ而、天地ニ対し申訳も無之次第」であると記しています。 <ヒロ> 慶喜は、この書簡の宛名を「鋭鼻先生」、自分を「天下大剛情」と署名しています。(追伸部分は「鼻公」「剛」です) 参考:『続再夢紀事』三p84(2010/10/6) 関連■テーマ別元治1「会津藩の守護職更迭問題・春嶽の守護職就任問題 ■旧参豫諸侯の帰国 【京】元治元年4月3日、肥後藩主弟長岡良之助(護美)は、越前藩に対し、薩摩・宇和島・肥後の三藩が明後5日にともに朝廷に帰国を願い出ることを知らせました。 この日、良之助は越前藩士中根雪江を呼び出し、次のように語ったそうです。
この日は、宗城からも、三人で帰国暇願いをするに至った事情を報せる書簡が届いています。 参考:『続再夢紀事』三p80-84(2010/10/6) ■諸大名の帰国&長州処分 【京】元治元年4月3日、阿波藩主蜂須賀斉裕、筑前藩世子黒田慶賛(長知)、津藩世子藤堂高潔、帰国の挨拶に参内しました。 朝廷は、特に慶賛に対し、長州藩主父子の恭順を説くようにとの沙汰を下しました。
参考:『維新史料綱要』五、『七年史』ニp165、『伊達宗城在京日記』p415、(2010/10/6 【京】中根雪江、大久保一翁に書簡を送り、慶喜と薩・土・予・越四候との間に隔意が生じ、春嶽が守護職辞任に至った経緯を奉じる(『続』p85-91)↑後日、UPの予定です。一翁〜。 【天狗党】藤田小四郎・田丸稲右之衛門に率いられる筑波勢(総勢170余名)、徳川祖廟の地で天然の要害である日光を目指して筑波出立。(『維』五)■水戸藩かけあし事件簿 |
|