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☆京都のお天気:曇天(『幕末維新京都町人日記』) ■元治元年6月10日、幕府は池田屋事件残党捕縛を命じました。(『京都守護職始末』) ■同日、東山の料亭明保野に長州系浪士が潜伏するとの情報を得て新選組隊士とともに捕縛に向かった会津藩家中の柴司は誤って土佐藩士麻田時太郎を槍でつき、けがを負わせました。若手土佐藩士は激昂し、会津・土佐の外交関係に亀裂が入りかねない事態へと発展していきました。 ◆明保野亭探索明保野亭に出向いた柴司は池田屋事件翌日に会津藩から新選組に派遣されていた7名のうちの5名となります。若い会津藩士(藩士といっても、次男・三男など)が新撰組に派遣されたのは、新選組が終夜の働きで疲労していたこと、また、屯所襲撃の噂があったことによります(『会津藩庁記録』)。◆会津藩士柴司、土佐藩士麻田時次郎を負傷させる。元治元年6月16日付けの柴幾馬(柴司の兄)の書簡によれば、柴司・常盤常次郎・石塚雄吾・田原四郎・両角太郎の5名の会津藩士と、武田観柳斎をはじめとする15名が踏み込んだそうです。浪士一人につき一人の見当です。柴は一階を担当していましたが、誰もおらず、そのうち二階が騒がしくなって侍が2名逃げてきたところに、武田が『柴公其者取り逃がさず打ち捨てられ候よう』というので、無二無三に追いかけたところ、垣根を破って逃走しようとしたので、槍で突き、捕縛しました。ところが、彼は長州浪士ではなく、土佐藩家老福岡宮内家臣の麻田時太郎でした。麻田は「逃げるつもりはなかったのにこのような傷を負ったのは残念だ。突かれたのではなく、自分で突き掛けたのだ(混乱の中で自然と突き掛けた)」と言ったそうです。麻田はひとまず町奉行所へ引き渡され、一件は黒谷の会津藩本陣に知らされました。 事件を知って心配した幾馬は新選組の屯所に向かったところ、「心配することはない」といわれて引き返したそうです・・・しかし・・・。 ◆土佐藩と会津藩の対応このことを知った土佐藩では大騒ぎになり、激昂した若い藩士が明保野亭に集結し、会津の本陣である黒谷に押し寄せようとか、壬生へ斬り込みに行こうとなど相談しました。(噂をききつけた新選組は終夜、厳戒体制をとり、黒谷にも警戒を促す使者を送りました)。留守居役が急遽、明保野亭まで出向き、藩士を説得してようやく押しとどめたそうです。(『会津藩庁記録』)一方、事件を聞いた会津藩主松平容保は「土佐藩とは協力関係にあり、一人の過失によって藩が不平を抱いて不和になれば、国家のためにならない」と憂慮し、とりあえず公用人の手代木直右衛門・小室金吾左衛門を河原町土佐藩邸に派遣して、事態の収拾にあたらせようとしました。留守居役は明保野亭に集まる藩士を鎮撫しに出かけており、不在でした。(『会津藩庁記録』 四p712) 容保は、手代木・小室の帰りを待たず、藩医渋沢昌益を派遣して麻田の傷の診察をさせようとしました。昌益は診察の上、居合わせた土佐藩医と意見交換した結果、命に別条はなかろうということになりました。昌益が黒谷に帰って報告できたのは翌11日朝6ツ(午前6時頃。日の出の30分前)のことでした。(『会津藩庁記録』四p713・『七年史』) <ヒロ> 会津藩士の指揮系統はあきらかではありませんが、もし、武田に命じられて柴が麻田を槍でついたというのが事実なら、会津藩士が浪人集団である新選組の副長助勤(武田の当時の役職)の指揮下にはいっていたことになります。ちょっと不思議な気がするのですが、指揮関係はあいまいなまま、武田のキャラクターで命令ということになったのでしょうか??(池田屋事件の功績により幕府が新選組の幕臣取りたての内示を出したのは明保野事件からは10日後のことになりますが、それによれば副長助勤クラスは与力となります) |