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☆京都のお天気:晴天、極暑 (『幕末維新京都町人日記』) ■長州入京問題 >朝廷の動き 【京】元治元年6月29日、最近の「不穏」な状況に鑑み、禁裏守衛総督である一橋慶喜に諸事委任するとの沙汰が下されました。 【京】同日、孝明天皇は、関白・議奏・伝奏に、@昨年の8.18政変、親征行幸中止は自分の意志であり、その後の勅は「真実」であること、A(長州の批判の対象となっている)会津藩主松平容保擁護、B長州人入京不可を記した宸翰を示しました。相前後して、宸翰は、一橋慶喜に授けられました。 (宸翰のてきとう訳)
『七年史』によれば、宸翰は、中川宮を通して慶喜に授けられ、畏れ入った慶喜は、その写しを在京諸藩に回達したそうです。 <ヒロ> この頃の容保は、孤立していました。長州勢には池田屋事件のせいで一層敵視され、在京諸藩も多くは長州藩に同情的(因幡藩とか、因幡藩とか)、また親長州公卿には、27日に兵を率いて乗輿のまま御所に入り、そのまま宿陣していることを公然と非難され、さらに長州処分をめぐっては即時征伐を主張して慶喜と対立していました。この宸翰にわざわざ容保のことが触れられているのは、そんな孤立無援状態の容保を慮ってではないかと思います。中川宮と相談して書かれたものかも? (2018/2/2追加)なお、親長州・反会津の中山忠能は、日記の7月1日の条に、慶喜が強く願い出た結果、この宸翰が下されたように記しています。(『中山忠能日記』二p161-162) >在京幕府の動き (一度目の撤兵勧告) 【京】元治元年6月29日夜、禁裏守衛総督一橋慶喜は、使者を伏見に派遣して長州藩家老福原越後を呼出し、朝旨を伝えて山崎等に屯集する諸隊の退却を説得するよう告げさせました。 慶喜は、目付(小監察)羽田庄左衛門を伏見の長州藩邸に派遣して、伏見に滞在中の家老福原越後を奉行所に召喚させ、朝旨を伝え、武装して迫ったのでは嘆願を検討することもできないので、まず兵を退くようにと告げさせました。(『七年史』では宸翰の写しを示したことになっています) >長州勢の動き 【伏見】同日、長州藩家老福原越後は、山崎等に屯集した諸隊の代表(真木和泉や入江九一ら)を伏見に呼び出して事情を説明しましたが、彼らは幕府が朝命を曲げているのだとし、撤兵には応じませんでした。 <ヒロ> 彼らにとっては、朝命は、去年自分たちがやってきたことの全否定なので、受け入れるわけにはいかないですよね。幕府が宸翰の写しを見せて長州藩を説得したとするのは『七年史』ですが、本当にそうだったとしたら、逆効果だったような・・・。 この後も慶喜は説得を重ねていきますが、在京幕府内では、あくまでも説得を第一とする慶喜と即時討伐を主張する会津藩が対立を深めていくことになります・・・・・・。 <参考>『徳川慶喜公伝』3、『徳川慶喜公伝史料編』二、『七年史』二p233、『維新史』四p58-60 (2000.8.1) ■反会津公卿による松平容保排斥 【京】元治元年6月29日、兼ねてから「会ヲにく」んでいた口向役一同が、京都守護職・会津藩主松平容保の「差押」(=処分)を求める上書を提出しました。 前々27日、容易ならぬ形勢だとのことで、容保が病中を押して参内した際、歩行が困難なので、清所門から乗輿のまま武家玄関に入りました(そして、以降、そのまま御所内の凝花洞に宿陣)。この行為を、全く心得違いだとする一部の公卿は、以来、「騒動二かこつけ会土足ニて武家玄関に昇込候」と容保批判を強めていました。 たとえば、中山忠能日記の6月28日、29日条から、この件に関する忠能本人や正親町公董(実徳の養子。忠能の実施)の会津批判の文言をいくつかひろっていくと・・・ >28日条 〇会津一藩だけが多人数を繰り出し、九門内にも入り込み、大病中、御所内に詰めているが、他藩は騒いでおらず、「会アハテ過」である。 〇「会昨日之所行、畢竟、表唱御守衛、実は宮中へ逃込候」と思われる。黒谷を引き払ったともいい、「甚不審千万」である。昨日大病中、長髪で武家玄関へ乗り込んだと後から聞いたが、「不埒千万言語同断」である 〇会津藩だけが「土色面」である。天龍寺屯集の徒を福原越後が鎮静に向かったのを、「会恐縮之余り騒出し・・・全ク禁中へ逃」げたのである。 >29日条 〇会津が御門に乗り込んだのは御咎めあがるべきで、凝花洞に「千人」の兵を宿陣させているのは「甚不可然」。この2つは「中々非理千万奸徒満朝」である。 参考:『中山忠能日記』二p152,154,159(2018/2/2追加) |