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元治1年6月27日(1864年7月30日)
【京】長州入京:長州兵、京都来襲の噂。
守護職松平容保と会津藩兵、御所内凝華洞へ。御所九門閉鎖。
朝議。禁裏守衛総督一橋慶喜、長州藩主父子の入京に反対
朝議、長州兵入京不可で決まる。
小松帯刀、在藩家老に京都出兵を要請
西郷隆盛、国許の大久保に長州征討もやむなしと報じる

☆京都のお天気:晴天、極暑 (『幕末維新京都町人日記』)
■長州入京問題
>長州勢の動き
【嵯峨】元治元年6月27日、長州藩士木島又兵衛が遊撃隊を率いて、伏見から嵯峨野の天龍寺に移り、屯集する長州勢に合流しました。

【山崎】同日、山崎屯集の寺島忠三郎らは兵を率いて石清水八幡宮に参詣し、攘夷決行、三条実美ら五卿・長州藩主父子の雪冤を祈願しました。
(以上、『維新史』四p44(2001.7.30))

>朝幕の動き
【京】元治元年6月27日、京都周辺に布陣する長州兵の京都来襲の情報が入り、京都は大騒動になりました。

守護職松平容保は藩兵とともに御所に入って宿陣し、外講九門を閉鎖するとともにその警備を強化しました。朝議が開かれ、長州藩主父子の召命をめぐって親長州派の公卿と禁裏守衛総督一橋慶喜が対立し、最終的に、孝明天皇が長州兵入京拒否の勅を出したことで、ようやく入京拒否と決まりました。


会津藩兵の御所内宿陣・九門閉鎖
この日、京都守護職・会津藩主松平容保は、伏見に布陣する長州戦が京都に来襲しそうだとの情報を藩士から得ると、病を押して武装した藩兵を伴って参内しました。重病だというので特に乗り籠のまま清所門を通る朝許をえるという厚遇でした。その後、会津藩は御所の御花畑(凝華洞)と馬屋を借りて仮本陣としました。

親長州の公卿(中山忠能、正親町三条実愛、飛鳥井雅典、柳原光愛等)は容保が乗り籠のまま御所に入ったこと及び御花畑に本陣を構えたことを「守護職朝制を蹂躙す」と問題にしましたが、関白二条斉敬は聞き入れなかったそうです。(中山忠能は、この日の日記で容保が乗輿のまま御所に入ったことを「天魔之所行」とし、誰一人制する者がいなかったことに憤激しています(『中山忠能日記』二p150)。この後、容保が御所内に留まることになったため、親長州公卿は容保の批判を強めていきます。

また、御所外講九門は閉鎖され、諸藩の警備が強化されました。

(※『綱要』によれば老中稲葉正邦が参内して、嵯峨屯集を報告。容保は黄昏どきに参内。)

関連: ■幕末豆知識「御所の九門・六門」元治1年4月の朝命による御所九門・六門の警備担当(&文久3年5月との比較)

長州入京に関する朝議
長州入京についての朝議が、24日に続き、開かれ、国事御用掛・守護職・所司代が参加しました。容保は重ねて討伐を主張しましたが、親長州の正親町三条実愛は<藩主父子の一人を御所に召して諭し、悔悟の念を示せば許されるべきだ>と述べ、他の公卿もこれに賛成しました。しかし、遅れて駆けつけた(*1)禁裏守衛総督の一橋慶喜はこれに猛反対し、<長州藩が大兵を擁して京都に迫るのは臣子の分を失い、不敬至極であるのに、大膳大夫(藩主毛利敬親)父子の一人を召すのは朝威にも関わる。長州には順序を経て嘆願をさせ、その兵は速やかに退かせるべきである。朝議が、もし父子の一人を召すと決するようなことがとあれば、自分は肥後守(守護職松平容保)・越中守(所司代・桑名藩主松平定敬)とともに職を辞するのみである>と言い放ったそうです。結局、朝議はようやく、長州入京不可で決まりましたが、すでに翌28日寅の半刻(朝5時過ぎ)になっていました。

長州入京不可の勅
『徳川慶喜公伝』によれば、孝明天皇が「去年8月18日の一挙は関白以下の矯勅にあらず、全く朕が意に出でたり。長人入京の儀は決して宜しからず」と勅し、朝議が決したそうです。(でも、6月29日の宸翰と内容が同じなので、もしかするとこの宸翰のことを指しているかも?)。

参考:『徳川慶喜公伝』3p59、『七年史』二、『維新史』三p56-58 (2001.7.30)
(*1)一橋慶喜は、一昨日来の病を理由にこの日の参内を辞退していました。参内したのは、長州勢嵯峨屯集の報に接したからなのか、誰かから重ねて要請されたのか、理由は不明です。(『徳川慶喜公伝史料編』二p118)

>在京薩摩藩の動き
【京】元治元年6月27日、薩摩藩家老の小松帯刀は国許の家老に対し、書を送り、京都出兵を要請しました。

(書簡のてきとう要約)
〇長州人が多数大坂に到着し、容易ならぬ形勢になったことは、一昨25日に急飛脚をもってお知らせした通りだが、今日になって、洛中が騒しくなり、各諸侯も(御所の)警衛に兵を差し出され、今にも「異変到来」となるやも計り難い形勢となっている。この春(島津久光の帰国時に)残された藩兵もいるが、何分手薄なので、早々に諸郷から五組、御城下からは一組派遣してほしい。詳しいことは、井上直左衛門・川上助八郎に言い含めて遣わす。
〇大守様(=国父島津久光)・中将様(藩主島津茂久)のお耳にいれ、早急に取り計らってほしい。
(6月27日付在藩家老宛小島帯刀書簡より作成)

<ヒロ>
これまで傍観(静観)を決め込んでいた在京薩摩藩がようやく動きました!それだけ情勢が緊迫しているということでもあるでしょうが、裏の事情は、やっぱり吉之助が一蔵に知らせてました。↓

【京】元治元年6月27日夜、在京の西郷隆盛は国許の大久保利通に書を送り、長州の目的が(池田屋事件を発端とする会津との私闘ではなく)8.10政変前の状態に戻すことであり、公卿の過半数が長州を支持しているとわかったため、(急に当事者意識が芽生え)いずれ朝命を奉じて戦うしかないとの決意を伝えました。

(書簡のてきとう要約)
〇先便で「禁闕御守護丈の処一筋に」勤めるつもりだと知らせたところだが、今日になって「長州暴横」が明かになり、有栖川宮・正親町(実徳)らと語らい、朝廷を八月十八日の状態以前に戻して、我が意を押し通すという考えだとわかった。いずれ征討の勅命が下されるだろうが、そのときは「長と相戦わず候ては相叶わざる時機」もあるだろうと決意している。
〇既に、今日、九門の警備が強化され、長州勢が伏見から押し寄せるとの情報があり、「大騒動」になっているので、早速応援の兵を出すことになった。
〇なるだけ自重すべきところだが、(長州が)「暴威」で「朝廷を取り崩」そうとするのでは、「もふ」黙視してはいられない。(長州は)八月十八日以前を「真の叡慮」、その後はすべて「偽謀」とするつもりで、「堂上方も過半数長州同意の向きと相見え申し候」とみられる。この上は、どれだけこらえても、必ず「我国」(=薩摩藩)が「打ち崩」されることは疑いなく、朝命を奉じ、戦うより他にない。
(6月27日夜付大久保一蔵宛大島吉之助書簡より作成)

<ヒロ>
うむ・・・要するに我が身にも火の粉が降りかかってきそうなので重い腰をあげるのですね。それにしても、つい一昨日(25日)にこれは「長会私闘」の「無名の戦争」で関わったら「恥辱」で「汚名」だとまで言っていたのに、なんとも変わり身が早い(臨機応変)です!西郷(そして在京薩摩藩)の方針を転換させた「長州横暴」の情報源はどこなのでしょう?中川宮とか近衛前関白父子あたりから朝議の様子でも伝わってきたんでしょうか??
参考:『玉里島津家史料』三p415、『西郷隆盛全集』一p337-339(2018/1/31)

(2018/2/2追加)同年7月4日付の一蔵宛書簡によれば、27日夜、西郷は近衛忠房(内大臣)に呼び出されて、正親町三条実愛と一橋慶喜の両論について意見をきかれているので、情報源は忠房でした。
※元治1年5月以降の一蔵宛吉之助書簡
・5/12:公家達は「例の驚怖」の病で「暴客」を恐れていること、近衛前関白父子に護衛を差し向けていること、長州・「暴客」が禁裏守衛総督・摂海防御指揮一橋慶喜の野心を疑っていること、「幕奸之隠策」により薩摩に悪評がたっていること、来月にも外国艦隊が長州を攻撃すれば長州・急進派の「暴威」も衰えるだろうこと等
・6/1:幕府・慶喜が外国の手を借りて長州を抑えようとしているという風説、それは憎むべきことであるという考え
・6/2:(8.18 政変の件で)藩士高崎佐太郎(正風)・高崎猪太郎(五六)が「暴客の徒」に憎まれているので暫く国許に引き留めるよう願い出
・6月6日:浪士間における薩摩の評判回復
・6/8:池田屋事件の黒幕が慶喜である説、幕府、(親)長州の双方から味方として期待されているが薩摩は中立の方針
・6/14:池田屋事件・明保野亭事件に係る風説、長州における討幕説、中川宮の辞職周旋、中村半次郎の浪士潜伏
・6/21:一橋家の「内乱」(平岡円四郎暗殺)による慶喜の「暴威」低下の見通し、会津藩と土佐藩の反目等の池田屋事件後の京都の情勢を報じ、薩摩藩の悪評を封じるための商人による外国交易取り締まりを依頼
・6/25:長州の伏見到着とこの「戦争」を「長会の私闘」ととらえ、静観・朝廷守衛に専念する方針をを報知

■横浜鎖港問題(をめぐる江戸の政変)
【京】元治元年6月27日、幕府、松平直克の総裁職更迭(6/22)にともない、水戸藩主徳川慶篤に鎖港交渉・随時登城を命じました。(『維新史料綱要』五)

【天狗・諸生】(こちらもどんどん状況が悪化しています)
元治1年6月27日
・幕府、水戸藩に対し、小金屯集の藩士等の解散・帰国させるよう命じる。
・水戸藩執政市川三左衛門、浪士討伐のため結城へ。前執政武田耕雲斎らの大挙南上(小金屯集)を聞き、城代鈴木重棟に出兵を要請。
元治1年6月28日
・水戸藩執政榊原新左衛門・家老鳥居瀬兵衛、小金から江戸にもどる。26日に江戸に到着していた執政戸田銀次郎とともに藩主徳川慶篤に閲し、執政朝比奈・佐藤(市川派)の排斥を進言。
関連:水戸藩/天狗諸生争乱

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