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元治元年7月1日(1864年8月2日)
【京】長州入京:家老福原越後、朝幕に藩主父子・三条実美らの入京嘆願
【京】薩摩藩小松帯刀、禁裏守衛総督一橋慶喜の要請による出兵を断り、朝命なら出兵すると回答
【江】幕府、米国仮公使館・善福寺焼失に係る損害を賠償し
商船ペンブローク号砲撃に関する賠償金の支払を承諾。
【天狗諸生】水戸藩、市川派の朝比奈・佐藤の執政罷免(

☆京都のお天気:晴天、極暑 (『幕末維新京都町人日記』)

■長州入京問題
>長州藩の動き

【伏見】元治元年7月1日、長州藩家老福原越後は、勸修寺家を通して、朝幕に、山崎・嵯峨屯集の藩士の願意(=藩主父子・三条実美らの入京)を聞き届けるよう嘆願しました

(嘆願書のてきとう訳)
自分は(出府の)途中に存外の件に出会い、その鎮静を請け合ったが、一向に進まず、とてもこのまま出府するわけにもいかない。幸い、一橋中納言殿を始め、幕府要路の方が滞京されているので、(藩主)父子から申し付かった用件及び山崎にいる者共の願意を取りまとめ、周旋尽力し、鎮静が行き届くようにしたい。

<参考>『徳川慶喜公伝』3、『維新史』四p46 (2000.8.1)

>在京幕府・薩摩藩の動き
【京】元治元年7月1日、薩摩藩家老小松帯刀は、禁裏守衛総督一橋慶喜に対し、征討時の出兵について、慶喜の命ではなく、朝命があれば出兵すると回答しました。

小松が、同年7月4日に在藩家老宛に知らせたところによれば、この日、慶喜は、小松を呼出し、直接に援兵を打診したそうです(<今、伏見に大小監察を派遣して(長州に)撤兵の朝命を伝えさえているが、もし、承知せぬ場合は「誅伐」を与えることになる。出兵は可能だろうか>※)とこれに対し、小松は、藩兵は非常時の御所守衛のために残し置いているので、一橋(=幕府)の命令で出兵することはできないが、朝命があれば出兵すると述べたところ、それで済んだそうです。なお、この日の一橋邸は大小監察が出仕する騒動だったそうです。

<ヒロ>
う〜ん、小松は、6月27日には長州征討やむなしと判断して、国許に出兵を要請していたのですが・・・(6/27)。慶喜は、前日に長州処分諸事委任の勅命をもらっているので(6/29)、その要請もほぼ朝命みたいなものかと思うのですが、薩摩藩にはそう取ってもらえないんですね。前途多難です・・・。

※なお、この件について、西郷隆盛は、国許の大久保利通に対して、慶喜の打診は、<長州へは、大小監察を通じて朝命を伝達し、期限を切って伏見を引き払うよう命じるが、(撤兵のないまま)期限を過ぎれば、違勅の罪を正すことになる。(予め)諸方の守りを固めて置き、「急速」に攻撃せねば、「敵」に先手をとられるかもしれないので、守衛兵を出すように>というものだったと報じています。

<参考>『玉里島津家史料三p440-441、『西郷隆盛全集』一p344-345(2018/2/2, 2/3)

【江】同日、幕府、米国仮公使館・善福寺焼失に係る損害を賠償し。商船ペンブローク号砲撃に関する賠償金の支払を承諾。
【天狗諸生】同日、水戸藩、市川派の朝比奈・佐藤の執政罷免(6/28の執政榊原・戸田らの進言を受けて)

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