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元治元年7月13日(1864年8月14日)

【坂】長州藩家老益田右衛門、兵を率いて着坂
【京】禁裏守衛総督一橋慶喜、長州藩留守居乃美織江に、家老福原越後等の大坂退去を諭す

7月11日の動き
【京】長州入京:佐久間象山の暗殺(維p72)
7月12日の動き
【京】小松帯刀の呼び寄せた薩摩藩兵、京都守衛のため着京、二本松の同藩邸に入る(約400〜500人)(綱、維p77)。
【京】長州入京:一条家門56名、長州藩主父子入京を再度建白 (嵯峨屯集の長州兵が11日に退去したと聞くので、事理を弁えた行動をとったうえは長州藩主父子を召命し、攘夷の叡慮を貫徹すべし。(※11日退去は誤報))(慶3p64、綱)

(禁門の変まで後6日・・・・)
☆京都のお天気:晴天 (『幕末維新京都町人日記』)
■長州入京問題
>長州勢の動き
【坂】元治元年7月13日、 長州藩家老益田右衛門が率兵して着坂し、藩邸に入りました。

大坂留守居役は、幕府に対し、益田の上坂の目的は、増加する一方の脱走者の鎮撫鎮撫のためにだと届け出たそうです。実際は、益田は、国許出発前に、藩主毛利敬親に対して、上坂の際にとがめられた場合は、大人しく事情を説明するが、それを認められない場合は押して通るしかなく、もし砲撃を加えられれば応戦するとの覚悟を述べていたそうです。

益田は、翌14日には橋本(石清水神社のある男山)に向かいます。

参考:『維新史』四p48

>在京幕府の動き
【京】元治元年7月13日夜、 禁裏守衛総督一橋慶喜は、長州藩留守居乃美織江を召し、家老福原越後等の大坂への退去を説諭しました。

この日、慶喜は、以前から長州藩のために周旋説得していた因幡藩・対馬藩の留守居役とともに乃美を呼出し、共に伏見に行き、家老福原越後に大坂退去を説諭するよう命じました。乃美は家老の一人を入京させて直接説諭することを願い出ましたが、慶喜はこれを却下したそうです。

参考:『防長回天史』p六二三、『維新史』四p74、『中山忠能日記』二p191(2018/2/4)

【長州】同日、 長州藩世子毛利定広、兵を率いて山口を進発。(『維新史』四p50)
【天狗・諸生】同日、水戸藩元執政佐藤図書・同朝比奈弥太郎(市川派)諸生を率いて、江戸を発し、帰藩の途に就く。(『綱要』五)

関連:「テーマ別元治1」■池田屋事件、長州入京問題、禁門の変

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