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(禁門の変まで後5日・・・) ☆京都のお天気:晴天 (『幕末維新京都町人日記』) ■長州入京問題 >長州勢の動き 【橋本】元治元年7月14日、 長州藩家老益田右衛門が、先発の諸隊が屯集する山崎の対岸の橋本に到着しました。(翌15日、石清水八幡宮のある男山に向かいます) 周辺地図:https://goo.gl/maps/xL6JmA8b7d72 (※山崎には真木和泉・久坂玄瑞らが屯集) 【伏見】同日、 禁裏守衛総督一橋慶喜の意を受けた長州藩留守居役乃美織江らは伏見の家老福原越後を訪ねて、大坂退去の命を伝達しましたが、効果はありませんでした。(維、中、防) 同日(あるいは15日)、長州藩家老福原越後・国司信濃は、淀藩を通じて、天皇遷幸説の出処(※会津藩を想定)糾弾を求める嘆願書を提出しました。(維、七) 福原・国司は、嘆願書において、(これまで通り)脱走諸卿・藩主父子の雪冤、洛外屯集の藩士等の素志を訴え、嘆願が既に十数日に及んでいるのに聴許がないどころか、退去の沙汰が下り、征討の朝議もあるというので、諸隊説諭の目的を果たせるとも思えず苦慮していると切々と述べました。さらに、今、天皇遷幸の風説によって「紛乱」が起きているとした上で、「奸臣」が「営私」(私利私欲)の余り「害君之逆罪」を憚らず、「誣讒」を以て朝廷を恐怖させ、天皇の「惑乱」を謀っているのあれば、「天下の乱」になると屯集の諸隊も自分たちも痛心悲憤しているので、その「乱言流伝」の出所を糺してほしいと訴えました。 しかし、所司代松平定敬が京都留守居乃美織江を呼出し、嘆願書を却下したそうです。 <ヒロ> 天皇遷幸の風説では、会津藩が主導者だと目されていました(こちら)ので、長州藩が、朝廷に対し、暗に容保を糾弾するよう求めたことになります。(『七年史』に嘆願書が収録されています。会津藩には気になる嘆願書ですものね)。 そしてその会津藩は、朝廷内では・・・↓ >朝廷の動き ■反会津・親長州公卿による松平容保排斥 【京】元治元年7月14日、 少納言五条為栄(ためしげ)が、関白二条斉敬に対し、長州の入京を許し、守護職松平容保九門外に出し、神祇官を再興するよう、建議しました。 為栄は、文久3年9月に文学博士となり、翌文久4年2月の年号変更を勘申した人物です。(『明治維新人名辞典』) 容保排斥の理由は、容保が御所内にいては人心が落ち着かないため、というものでした。 ちなみに、この頃の容保は歩行も困難なほどの大病で、6月27日に乗輿で御所に入って以来、藩兵とともに御所内の凝花洞に宿陣していましたが(こちら)、これに反発する一部の公卿は、容保の処分や会津藩兵の引きはらいを求めて公然と運動しており(6/29) 7月7日には容保が最近亡くなり、兵が引きはらわれるのではないかとの噂もたっていました。 <ヒロ> 容保(会津藩)は、唯一の即時討伐派(+弟の所司代松平定敬)あり、在京幕府内でも、撤兵説得を主張する一橋慶喜とは意見が対立していました。8.18政変で連携した薩摩藩にも援兵の件では距離を置かれており、孝明天皇の個人的信頼(と弟の所司代松平定敬)だけが頼りな孤立状態です。 参考:『維新史』四p74、76、『防長回天史』p六二三、『七年史』二p253-255、『維新史料綱要』五、『中山忠能日記』二p175(2018/2/4) 関連:「テーマ別元治1」■池田屋事件、長州入京問題、禁門の変 |