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元治1年7月18日(1864年8月19日) 

禁門の変まであと1日

【京】昼前、長州に同日限りの撤兵の朝命
【京】禁裏守衛総督一橋慶喜、長州藩留守居に撤兵を最終勧告
【京】夕、有栖川宮・親長州公卿、急遽参内。容保追放を主張
【洛外】夜、長州勢進発開始
【京】夜、長州藩、会津藩主松平容保弾劾・追放の上書を諸藩・所司代に送致。
【京】夜、召により、中川宮・山階宮・二条関白ら幕府協調派参内。

(禁門の変まで後1日・・・)
☆京都のお天気:晴 (『中山忠能日記』)
>朝廷・幕府の動き

長州撤兵の朝命と最終勧告
【京】元治元年7月18日の昼前、朝廷は、長州藩に対し、本日中の撤兵・拒めば追討との最終的な撤兵の朝命を伝えました

長州処分の朝議は徹夜で行われ、この日の朝になって、本日限りの撤兵・拒めば長州征討が決まりました。関係者が退朝したのは巳刻(午前10時頃)でした。朝議に基づき、朝廷は、長州藩留守居役乃美織江を議奏六条有容邸へ呼び出し、議奏・伝奏全員が列座する中で、朝命を伝えました。

正親町三条実愛ら議奏は、朝命を伝えた後、<穏やかに撤兵し、福原越後が伏見に残って手順を経て嘆願すれば、寛大なお取扱いもあるだろう。主人の素志にもとらぬよう、よく考え、早々に引き払うように>と諭したそうです。

乃美は、なおも家老の一人の入京・嘆願を願い出ましたが、これは聞き入れられなかったそうです。

【京】同日、禁裏守衛総督一橋慶喜も、乃美織江を宿舎へ呼び出し、本日中に引き払ねば追討するとの撤兵の最終勧告を言い渡しました。さらに、大目付永井尚志を伏見に送り、長州家老の福原越後に朝命を伝えさせました。

この慶喜の最終勧告について、旧会津藩士山川浩は「慶喜卿は猶も人事に於て、尽さざる所ありやと思われけん(=つまり、いい加減にしろ!)」と回想しています。

同日、幕府は京都警備を強化するために、大垣・彦根藩を伏見方面に、薩摩・膳所藩を天龍寺方面に配置しました

禁門の変直前の長州&幕府・諸藩の主な配置
長州 幕府・諸藩の主な配置
伏見方面 福原越後隊 先鋒:大垣藩(稲荷山)、彦根藩(桃山)。
指揮:会津藩・桑名藩(九条河原)。
山崎(天王山)方面 益田右衛門隊、真木和泉・久坂玄瑞ら諸隊 先鋒・宮津藩、郡山藩。ついで津藩。
天龍寺方面 国司信濃隊
遊撃隊
右先鋒:薩摩藩。ついで膳所藩。越前藩。
左先鋒:小田原藩。伊予松山藩。

参考:『維新史』四p76〜78、『京都守護職始末』p74、『徳川慶喜公伝』3p67(2018/3/4、3/10)

>長州勢の動き
容保弾劾・追討の上書
【洛外】元治元年7月18日、前夜からの会議で会津藩主松平容保討伐を名義に進軍を決定した長州勢は、容保の御所追放・長州による天誅を求める朝廷・幕府への上書諸藩に対して騒擾を免じ、後日朝幕に周旋を依頼する書面を認めました。

<ヒロ>
書面としては、(A)長州三家老連署の朝廷への上書、(B)防長浪士による上書、(C)浜忠太郎(=真木和泉の変名)・入江九一署名の幕府への上書、(D)浜忠太郎・入江九一署名の諸藩への容保弾劾・追討通告・執成し要請書、(E)長州三家老連署の諸藩への容保追討通告・執成し要請書(前の四冊の送り状)の5種類が作成されました。(書面のてきとう訳は一番下に)

参考:『維新史』四p80〜83、『防長回天史』六三〇〜六三三(2018/3/4、3/10)

【伏見】元治元年7月18日、長州藩留守居役の乃美織江は撤兵の朝命・慶喜の最終勧告を伝達するために伏見に向かいましたが、家老の福原越後と会議の結果、今更止めることは不可能だとの結論に達しました。

乃美が朝命と慶喜の最終勧告を伝えるために、馬を馳せて伏見に到着したところ、福原越後は既に出軍の準備を始めていたそうです。(『維新史』四p80〜83)

<ヒロ>
え〜、いや、ここでやめないと朝命に背いちゃうことになるよ、と思うのですが、朝廷内で政変を起こすことで、事態を打開できると考えていたようです。↓

政変計画
【伏見】元治元年7月18日、長州藩家老の福原越後は、天龍寺に布陣している家老国司信濃と連絡を取り、有栖川宮及び加賀藩・因幡藩・備前藩の協力による、反中川宮・会津の政変を具体的に計画しました。

その内容は次の通り。
師宮(=有栖川宮熾仁)が「正義」の公卿を数人連れて参内し、天皇に時勢切迫を告げ、「皇国」のために諫争する
〇四門の警備を加賀藩・因幡藩・備前藩に命じ、九門は諸藩に命じる。
尹宮(=中川宮)の参内を停止し、会津追放の勅命を出す。
〇朝幕への上書は、鷹司前関白の参内と同時に差し出し、次に会津に「戦書」を送る。

<ヒロ>
乃美と福原の会談との時系列は不明です。参考『徳川慶喜公伝』3(p68) ※「熾仁親王行実所蔵福原元(にんべんに間)牒国司親認書」という史料があるようです。

■有栖川宮及び親長州派公卿邸への容保追放の働きかけ
【京】元治元年7月18日夕、京都長州藩邸に詰めていた藩士椿弥十郎は、洛外の長州勢から送られてきた「会津追討の書面」を有栖川宮に届けるために中山忠能邸を訪ねました。その後、伝えられた有栖川宮の反応は、参内して容保の洛外追放を周旋するとのことだったそうです

(中山忠能の日記の18日の条)
〇「自長州屋敷一封来有四冊差置帰ル由也。申刻頃(16時頃)」
〇「参内申半(17時)乃美御返答伺且長州から差越四冊事届議卿中院(=中書院=有栖川宮・父?)了於本紙師宮(=有栖川宮・子)より被差上由仍不差出」

(旧長州藩士椿弥十郎の明治27年の回想)
〇18日の午後頃、藩邸に天龍寺・天王山・伏見の長州勢から「会津追討の書面」が送られてきた。
〇書面を有栖川宮に届けるため、中山(忠能)邸に持参したところ、同邸には因幡藩士の天野某ほか4〜5名がいた。中山が天野等を連れて有栖川宮邸に行くということだった。
〇この時、(長州勢が)入京して戦争をするのは不利でないか、天王山に(会津を)引き寄せて戦ったらいいだろうとかいう議論があったが、天野は、たとえ加賀藩・因幡藩をもって意見しても(長州勢に)聞き入れられることはないだろうという見方を示した。同じ議論は河原町藩邸でもしたが、到底聞き入れられないだろうと(意見するのを)中止していた。
〇中山らが有栖川宮に意見をきくために出かけ、今でいう4時間もかかって戻ってきた。有栖川宮の意見は、<あちら(=洛外長州勢)もここまで決心したからには決心通りにしたほうがいいだろう。肥後守一人と朝廷の大事には変えられない。肥後守の洛外追放を参内して周旋する計画>だということをきいて、中山邸を引き取ったのは、以前の七つ頃(16時頃)だった。

【京】元治元年7月18日の日没前頃、容保の「罪状」を並べ、容保の御所追放・長州による容保天誅の勅諚を求める上書等が親長州公卿の正親町実徳邸に投じられました。 (『嵯峨実愛日記』の18日の条)

<ヒロ>
椿弥十郎の回想は30年もたってからのものなので、参考までに。中山忠能日記は管理人レベルには暗号状態なのですが、中山が届ける前に、有栖川宮を書面を入手していたように思われますよね?正親町邸と相前後して有栖川宮邸にも投じられたのではないでしょうか。

参考:『中山忠能日記』二p208、『史談会速記録』四p393〜394、『嵯峨実愛日記』一p8(2018/3/18)

>朝廷の動き
■有栖川宮ら親長州派による容保追放周旋
【京】元治元年7月18日夕、長州勢の上書を入手した有栖川宮父子(幟仁(たかひと)・熾仁(たるひと))は、関白に通知しないまま、急遽参内しました。相前後して、やはり上書を入手した正親町実徳・中山忠能も参内し、その後、親長州公卿が続々と参内しました。

有栖川宮父子は、孝明天皇に謁し、長州勢の上書をもとに容保の洛外追放を迫りました。


(中山忠能日記の7月18日の条てきとう訳)
・参内申半(17時)・・・・。

(嵯峨実愛日記の7月18日の条のてきとう訳)
・戌刻過(20時過ぎ)、宮中から相役(=議奏)の正親町大納言(実徳)の書状が送られてきた。その内容は「珍事出来之間早々可有参内之旨、師宮(=有栖川宮熾仁親王(息子の方))被示之由」というものだった。どういうことかわからず、師宮の示命というのも「先以不審之至」りだったが、近日の形勢では、「不容易変動」の可能性もあるので、家中に心得を指示し、直衣を着て、秘蔵の剣を携行して参内した。
・中務宮・師宮父子(=有栖川宮父子)や正親町大納言は夕景より参内したという。右大将(=大炊御門家信)、中山前大納言(忠能)、橋本中納言(実麗)等二十余人も列参し、「甚混雑之様子」だった。
・まず正親町が、<今日、日没前に、屋敷に投書があった。「松平肥後守罪状書」であり、「天誅」を加えるために、長州藩士が出陣して、勝敗を決することになった。一戦の間、暫くの間、輦下を騒がせることは恐れいるが、理解してほしい、との内容である>と、書面を見せられた。他に数件の書があった。一同、愕然とした。
・中務宮・師宮(=有栖川宮父子)等は(孝明天皇に)謁見して、この件を詳しく説明し、追放を求めた。
・この間、相役(=議奏)・武伝(=武家伝奏)等が列参した。

<ヒロ>
有栖川宮の動きは、上の政変計画の筋書きに沿っていますよね。これが成功すれば、昨文久3年の8.18政変後の状況が覆るところでした。しかし、朝廷内で8.18政変を主導した中川宮、そして容保に篤い信頼を寄せる孝明天皇は、そうはさせじと動きます↓

■中川宮の会津藩への報知
【京】元治元年7月18日夜、有栖川宮・親長州公卿の参内という「異変」があったことを察知した中川宮は、会津藩に、「心得」るよう知らせました。会津藩は、二条関白、禁裏守衛総督一橋慶喜にこのことを急報しました

(朝彦親王日記の8月18日の条のてきとう訳)
・夕京(ママ)、師宮(=有栖川宮(子))・正親町、中山ら参内。「異変生之事」

(元治1年7月20日付書簡『稽徴録』のてきとう訳)
・18日夕方に有栖川宮様始め激家の公卿が参内したと聞くので心得るようにと、夜に入って尹宮様より倉沢右兵衛(=会津藩公用方で当時中川宮に貸し出されていた)をもって仰せ遣わされた。即刻公用方が手分けして関白様・一橋様を廻って知らせたところ、どちらもすぐさま参内された。

※二条関白・一橋慶喜には、相前後して、召命がありました。↓

■孝明天皇の巻き返し
【京】元治元年7月18日夜遅く、孝明天皇の召命により、二条関白、ついで中川宮、常陸宮、徳大寺公純、近衛忠房ら幕府協調派が参内しました。国事御用掛も召命され、総参内となりました。

(嵯峨実愛日記の18日の条のてきとう訳)
・(孝明天皇が)関白を召すよう仰せ出され、二更(22時)後、殿下(二条関白)が参内された。右府(=右大臣)以下国事御用掛を召命され、三更(0時)後、右府・尹宮・常陸宮)・内大臣・九条大納言(道孝)等が参内された。

(朝彦親王日記の18日の条のてきとう訳)
・亥半刻(23時頃)、関白から参内の要請があり、子刻(0時ごろ)、「無異ニ参内」した。

■容保追放をめぐる朝議の膠着
【京】参内した二条関白らは、親長州公卿の主張する容保追放を却下しました。しかし、彼らはそれに納得せず、宮中は混乱状態となりました。

(朝彦親王日記の18日の条のてきとう訳)
・有栖川両宮が夕景から参内したが、御沙汰によって関白以下を召されたため、謀計が齟齬をきたし、「長州内応扨々アヤウキ事共」であった。

(中山忠能日記の18日の条のてきとう訳)
・会津について書付をもって次のように言上。
 (容保が)九重近辺に宿陣しており、(長州と)戦争になった際には(天皇の身が)実に御危ういことになるため、早々に肥後守へ洛外または二条城へ引き取るよう命じられるべきである。さもなくば「差迫候節」に九門内が騒乱になるやもしれない。非常時であり、他に方法がない。
・殿下(=二条関白)は会津を「追出」す件は「御不憐愍故」朝命は出さないと議奏に伝宣されたとのこと。

(嵯峨実愛日記の18日の条のてきとう訳)
・右大将(=大炊御門家信)らは連署して、長州藩士からの投書の通り、松平肥後守の洛外追放を主張したが、殿下らは採用にならない。右大将らはますます主張を言いつのり、「頗以混乱」であった。

■禁裏守衛総督一橋慶喜の急遽参内
【京】元治元年7月18日深夜過ぎ、会津藩からの異変の報知と相前後して召命を受けた一橋慶喜は、目付からも山崎の長州勢が押し寄せてきたとの急報を受け、速やかな出兵を命じると、供回りの準備が整うのも待たず、一騎掛けで乗り切り参内しました。

慶喜がこのように急いで参内したのは、公卿の中には容保を憎む者が多く、かつ長州の兵威を恐れて、容保の守護職罷免の朝命などが出されることを危惧したからだそうです。

<ヒロ>
二条関白らの容保追放却下と慶喜の乗り切り参内の時系列はちょっとよくわかりませんでした。慶喜が参内したタイミングは同時代史料でも諸説あったのですが、中川宮の日記(朝彦親王日記)に、慶喜は遅参しており、自分の参内後に改めて召されたとあるのを採りました。(九門内に住んでいる中川宮らに比べると、三条の館にいる慶喜の参内は遅くなるでしょうから、特にこの遅参に意味はないと思います・・・)。慶喜参内を午前2時頃とする史料も複数あるのですが、急遽駆けつけているのに、中川宮から遅れること2時間余というのはないのでは???と思いました。

参考:『嵯峨実愛日記』一p8、『中山忠能日記』二p208、『朝彦親王日記』一p4、 「元治1年7月20日付書簡」『稽徴録 京都守護職時代の会津藩史料』p83、『徳川慶喜公伝』3p69(2018/3/18, 4/1)

>長州勢の動き
■進軍開始
【京】元治元年7月18日夜〜19日未明にかけて、長州藩の軍勢が、容保討伐を名義に、京都に向かって進軍を始めました

(防長回天史によれば・・・)
18日五ツ時(20時頃)、山崎の真木和泉・久坂玄瑞等の諸隊が、八幡神社で隊伍を整え、御所外講南側の堺町門(鷹司前関白邸の近く)に向かって進発しました。

18日亥刻(22時頃)、伏見の福原越後隊が、伏見街道に向かって出発しました。

19日丑刻(午前2時頃)、天龍寺の国司信濃隊、木島又兵衛率いる遊撃隊が出発。国司隊、遊撃隊は二手に分かれ、それぞれ御所外講西側のは中立売門、下立売門を目指しました。

図:御所(外講九門&内講六門)の模式図

<ヒロ>
長州軍が目指した三門
堺町門
(南側)
越前藩警備。鷹司前関白邸のすぐ近くであり、鷹司前関白と連れ立って参内する計画だったことがうかがわれます。なお、鷹司邸と内裏の間には会津藩の布陣するお花畑があります。
中立売門
(西側)
下立売門
(西側。
・筑中立売門と下立売門の間には会津藩の警衛する蛤門があります。両門から御所に押し入って会津藩を挟み撃ちにして追い出すような計画だったんでしょうか。
・ちなみに、中立売門の北に位置する乾門は薩摩藩が警衛していました。

御所に無事到着した頃には、有栖川宮主導で政変が成功していると見込んでいたのでしょうか・・・・

参考:宍戸左馬之介書簡(『防長回天史』六三四、『維新史』三p88 (2018/4/1)

■諸藩への容保討伐の通告・朝幕への執成し依頼
【京】18日夜遅く、在京長州藩は、諸藩の留守居役に容保討伐の通告・朝幕への依頼書を添えた4冊の書状を届けました。

諸藩への通告・執成し依頼書は廻状になっています。長州藩は宛名の先頭の藩に書面を届け、順達への協力を依頼したようです。(このグループ分けは藩邸が近いとかなんですかね???)
対州、松山、川越、西條、大州、篠山
※対馬藩の送り状は18日付「別紙の通り申し来たので早速廻覧する。切迫の情勢、容易ならぬ大事件であり、ここは、皇国のため、大義更張の見込みをもって尽力したい」(てきとう訳)
米沢、佐竹、桑名、明石、佐土原、松代
※米沢藩の送り状は7月18日夜四ツ(22時頃)付「ただ今長州藩士が別紙4冊と別紙をもって順達するよう依頼してきたので一読したところ、誠に切迫に至っており、戦にならぬよう周旋したい。今晩中に評議したいので、早速、弊邸に来てほしい」(てきとう訳)
※大日本史料綱本収録の書簡は、米沢、佐竹、明石に廻達済のもの。順不動とはいえ、桑名(=所司代)が飛ばされている。桑名にまわせば戦になると考えた??
備前、津山、南部、岡、津
※備前藩の送り状は7月19日付「長州藩士から別紙を差し越し、順達するよう依頼されたので、四冊添書共廻達する。容易ならぬ事柄が差し迫っているので、早々に順達するよう取り計らってほしい。またこれら書面は実に容易ならぬことなので、公武にもお知らせする心得である。書面についてお尋ねがあるかもしれないので、ご覧になった後、ご面倒でもご返却いただきたい」(てきとう訳)
※備前藩は、長州藩からの廻状の宛先にない紀伊藩を廻状の宛先に加えている。
津和野、小田原、宮津、浜田、膳所、水口
※津和野藩の送り状は19日付「昨夜持ち回りで廻達するところだが、やはり順達するので熟覧されたい」(てきとう訳)
土佐藩
※土佐藩は、前日に薩摩・久留米とともに長州追討の上書を出していたのですが、長州側はこれに気づいていなかったのでしょうか
出所:大日本史料稿本(下記アドレス)より作成https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/image/idata/M00/M/20/GE030/0386.tif〜0393.tif, 0414.tif, 0445.tif

<ヒロ>
各藩の送り状をみると、それぞれ微妙に反応が違うのが面白いですよね。でも、なぜこれらの藩だったのか、気になります。長州藩が通告・執成しを依頼しなかった主な藩といえば、薩摩、越前、久留米、筑前、仙台、肥後、阿波、宇和島、尾張、郡山(山崎)、淀、大垣(伏見)、彦根(伏見)、因幡、加賀、水戸あたりですね。

〇容保討伐の通告・後日の執成し依頼書が届けられた諸藩(『大日本維新稿本』より)・されなかった?主な藩
依頼された藩 ・津和野、小田原(天龍寺)、宮津(山崎)、浜田、膳所(天龍寺)、水口
・対州、松山(天龍寺)、川越、西條、大州、篠山
・備前、津山、南部、岡、津(山崎)
・米沢、久保田、桑名、明石、佐土原、松代
・土佐
依頼されなかった?主な藩 薩摩(天龍寺)、越前久留米筑前仙台肥後阿波宇和島、尾張、郡山(山崎)、淀、大垣(伏見)、彦根(伏見)、因幡、加賀、水戸
緑色:御所外講九門警備諸藩、赤色:御所内講六門警備諸藩 ()内は禁門の変当日に長州勢の屯集する嵯峨天龍寺(国司信濃、遊撃隊)、山崎(益田右衛門、真木和泉・久坂玄瑞)、伏見(福原越後)に布陣していた藩

・親長州の因幡藩・加賀藩に上書が届けられていない。これは届けるまでもなかった(気脈を通じていた)から?逆に備前藩に送られてるということは、備前は政変計画に荷担してなかったってことになるのでしょうか?
・水戸藩もない。これは、一橋慶喜に即注進されるのを恐れたからでしょうか?
・今までさんざん上書の仲介を頼んでいた淀藩(老中稲葉正邦)にも送られてないです。これも、即慶喜に注進され、迎撃態勢を整えられる野を恐れたのでしょうか。それにしては、桑名(所司代)が含まれているのがよくわかりません。
・長州軍が目指した堺町門・中立売門・下立売門を警衛する越前・筑前・仙台藩にも送っていないですね。臨戦態勢に入られるとまずいし、戦って突破するつもりだったのかと思います。

■所司代への通告(というより宣戦布告)
【京】18日夜遅く(推定)、長州藩士川端亀之助(椿弥十郎の変名)が、所司代へ、哀訴状(三家老連署)、送戦書(長防浪士の書)、決心書(諸藩への周旋依頼書)を呈し、既に山崎の長州勢は出兵した頃だと告げました。

(元治1年7月20日付書簡『稽徴録』のてきとう訳)
(会津藩が、中川宮から宮中の異変を知らされ、関白・慶喜に報知した後)引き続き、所司代から急使があって、長州家川端亀之助と申す者が、松平御名(=容保)が天子を擁して鳳輦を移す、陰謀罪状によって誅伐を加えるとの内容の書面を差し出したので、すぐに差し戻したが、同人は「山崎表ハ最早踏出候半」というので、その心得で御警衛あるようにとのことだった。

(本人(椿弥十郎)の明治27年の回想のてきとう口語訳)
所司代には、なるだけ(長州入京に対する)手配が行き届かぬよう、遅くいく方がいいだろうということになった。従前の四ツ(22時)前に屋敷を出て所司代に行ったところ、小倉源左衛門という用人が対応した。書面をみるや否や驚愕し、暫時考えた後、<入京を禁止されている御藩が守護職を追討するとはどういうことか>と詰問した。そこで<私共は、大膳父子より御届済みの上屋敷にいる者です。また、(洛外の)三ヶ所の者は父子の冤罪を忍びかねて嘆願に出た者で、その嘆願の一部も少しも御聞き取りにならないので、やむを得ずこのようなことに至ったと存じます。書面はさきほど屋敷に届いており、重役の(乃美)織江が届けるべきところ、所労により自分が持参しました(このときは川端亀之助を名乗りました)。書面を越中守様(=桑名藩主松平定敬・所司代)にご覧にいれてくださるようお願いします。この書面の可否は私共には申し上げようがなく、ただ届いたので屋敷に残る者の職務としてお届けします>と答えた。すると、一応同役に相談すると奥に入ったが、時間がかかっているので、このようなことでは自分は帰してもらえないだろうと覚悟し、今に捕縛にくるかと思っていたが、四、五十分もたって、小倉が戻ってきて(書面を)受け取るわけにはいかないということだった。<それでは屋敷に届いたものを届け出たことは御承知くださるようお心得ください>と言って引き取った。12時を少し過ぎるくらいだった。

参考:『稽徴録 京都守護職時代の会津藩史料』p83、『七年史』二p270-271、『京都守護職始末』p75、『史談会速記録』四p394〜397(2018/3/10, 3/18、4/1)

>会津藩の動き
■御所警備強化
【京】18日深夜頃、所司代から長州勢進発の急報を受けた会津藩は、御所の警備を固めました。

参考:「元治1年7月20日付書簡」『稽徴録 京都守護職時代の会津藩史料』p83(2018/4/1)

>薩摩藩の動き
【京】深夜〜未明、薩摩藩の中村半次郎が、長州藩邸を訪ね、薩摩藩は局外中立を保つと述べました。
(じゅんびちゅう)

参考:『史談会速記録』四p398〜(2018/3/18)

■長州勢が作成した容保弾劾・追討の上書(セットにして配られたようです(↑参照)
(A)【長州三家老連署の朝廷への上書(容保弾劾書)】(『防長回天史』)(※長いのでかなりてきとう訳)
〇(例の如く自分たちの事情を哀訴なので略。)
〇今日、このように「内乱外患」が一時に迫るのは、別冊の脱藩者の陳述の通り、全くもって松平肥後守(=容保)が(守護職の)任ではないからである。我々は積年の叡慮を貫徹する決心だが、脱藩者同様、それには「肥後守誅除」仕る以外ないと存じる。
〇長門守(世子毛利定広)も、「外夷」の摂海侵入に備えて押して上京して警衛仕り、叡慮を改めて伺うと聞いたので、臣下としては、主を補佐するために、せめて「内乱の基」となる族(やから)だけでも取り片づけて主人の責労を分かちたいと一同決心している。
〇肥後守は「大官重職」にあるが、「眼前神州安危」に係る「姦賊」と定めた上は、すこしの猶予もなく、脱藩者を引き連れ、「国賊」を「誅除」し、謹んで「天幕」(=朝廷・幕府)の御指弾を待つと一決した。
〇肥後守を早々に九門から「追払」い、洛外なりへと引き退かせ、「尋常(に)天誅」を受けるよう命じ、さらに、「国賊誅除之勅諚」を幕府ならびに列藩へ下されたい。
〇このようなことは、自分たちは露にも好まないが、国家の為にやむを得ぬ仕合なので、お許しいただきたい。

<ヒロ>
う〜ん・・・容保が守護職に就任してからのことに限れば、「内乱」はもっぱら長州系のテロが原因なのでは・・・。ちなみに、省略した部分では、慶喜の度重なる勧告を(「一橋中納言懇切内諭」)と記していて、慶喜的にはぎりぎりまで粘った甲斐があった感じです。

(B)【別紙 「長防浪士」の朝廷への上書】(『防長回天史』)(※超超長いのと、打倒容保の負のオーラに満ち満ちているので、さらにてきとう訳)
〇陛下の攘夷の御志は変わらないと存じ上げ奉るが、去年の秋以来、「御撓」みになっている疑いがある。
交易の害で、僻土に至るまで一民も疾苦を免れる者はなく、殊に京都では殺気凄惨、人心という状態である。
〇それは松平肥後守の所為である。え?肥後守は性格が「剛腹」で、庸劣、名分等を弁えず、家来共も「奥州の荒僻の寒土」であり、ただその威を張り、城市を虐げるのみである。

※あ、やっぱり、疲れます。次に彼らは容保の「大罪」を挙げています。要約します。
@去年8月の天覧馬揃の際に御所内御花畑に武器を運び入れ、18日未明に御築地内も憚らず進発し、禁闕に押し入ったこと。(=禁門の政変のこと)
A鷹司関白、三条実美等、「国家の柱石」であった国事掛・寄人を「百万讒毀」によって失脚させたこと。(=禁門の政変のこと)
B三港外閉鎖を主張して、攘夷の叡慮と宗家の掟に背いたこと。
C市井の無頼を集めて壬生に居住させ、家隷の扶持米もいきわたらないからか、市中を横行させ、わずかな罪状で家屋敷を没収し、夜陰に乗じて辻斬り強盗をさせ、洛中洛外を擾乱させたこと。
D6月5日の夜、池田屋事件のこと。
E6月27日、兵を率いて乗輿のまま突然参内し、御所九門で自分の身を護ろうとしたこと。(「無法無礼」であり、朝憲を憚らず、幕法を守らない様子は、「普天率上、驚愕、憤怒」に堪えない、といっています)。

〇小さな罪にいたっては筆紙に尽くしがたく、朝廷を蔑視すること、藤原信頼・木曽義仲を超えている。
〇このような者が重職についているので上位の叡慮も民の思し召しも貫徹せぬばかりか、天下大乱の本、皇国必滅の秋である。
〇自分たちの哀訴・嘆願が未だに採用されないのも肥後守のせいである。浮浪騒乱の像を誣讒し、干戈内乱の禍を顧みず、列藩を欺き、廟議を促し、あまつさえ鳳輦揺動の姦謀を企んだことは、もはや天下万民のために捨て置きがたく、陛下祖宗のために誅伐せねばすまない。肥後守を「闕下で討伐」するので、すみやかに九門外に追放し、洛外へ退くよう命じられ、かつ天誅の勅諚をすみやかに下されるよう願い奉る。

<ヒロ>
浪士たちが庶民の困窮に言及しているのは目線が優しいなと思うのですが、京都が殺気に満ちているのは、自分たちのせいでもあると思います。

(C)【浜忠太郎(=真木和泉の変名)・入江九一の幕府への上書】(『防長回天史』)
※要するに、松平容保は「(徳川)御家之大罪人」であり、(長州)追討の勅を要請するなど干戈(戦争)を好み、内乱を顧みず、鳳輦揺動の陰謀を企てるにいたっては、これを誅さないのは「天下之大事」なので、自分たちが取り合えず誅伐を加えると通告。僭越の罪は後日どのようにも詮議を命じてほしい、との内容。

(D)【諸藩への通告・執成し依頼書】(『防長回天史』)
>三家老連署の諸藩留守居役への通告書:脱藩者が「義兵」を挙げ、自分たちも戦うことを通告した上で、「国家之御為」に行うことなので、「一時之騒擾」を「宥免」し、朝廷・幕府に「仁恵」の評議があるよう執成しを願う内容。
>浪士(浜忠太郎・入江久一郎)署名の執成し依頼書:「長防浪士の上書」の要約のような内容で、容保を討つべき理由を列挙し、朝廷・幕府に届けを出した上で、その罪を問うことにしたことを通告。自分たちが、「大義を以、時宜を権る事」を洞察し、「一日之騒擾」を宥免し、朝廷・幕府への執成しを願いたい、という内容。

<ヒロ>
浪士による幕府への上書、諸藩への周旋依頼書、いずれにも、久坂玄瑞の署名がないのは、やはり、今、戦うことに反対だったからでしょうか。(2018/3/18)

関連:テーマ別元治1 ■池田屋事件、長州入京問題、禁門の変 

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