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元治1年7月17日(1864年8月18日)

【京】薩摩・土佐・越前藩等、速やかな長州「討伐」を決議。朝幕要路に討伐の勅命を周旋。
【京】会津藩士&新選組、討伐慎重派の禁裏守衛総督一橋慶喜の宿舎に乱入
【男山】長州軍、松平容保討伐を名義にした進軍を決定 
【京】朝議(慶喜参加)。長州撤兵を命じ、拒否すれば追討、に決る

(禁門の変まで後2日・・・)
☆京都のお天気:晴 (『中山忠能日記』)
■長州入京問題
>即時征討派の動き
・在京薩摩藩・土佐藩・越前藩等(征討の勅命を入説)
【京】元治元年7月17日?、薩摩・土佐・越前・久留米等の諸藩が丸山で会合し、長州を「速ニ討伐シ禍根を絶ツ」ことを決定しました。その後、各藩は手分けして、尹宮(=中川宮)・常陸宮(山階宮)・近衛家・一橋慶喜・老中等を訪問し、速ニ討伐之勅命を下すよう勧めました。(『忠義公史料』三p398)

【京】同日、御所警備を担当する薩摩・土佐・久留米の藩士が、各在京重役と相談の上、長州への速かな「断然」の「処置」を求める上書を朝廷要路に提出しました。

(てきとう要約)
長門宰相(毛利敬親)父子は、去年8月以来勅勘を蒙り、その藩臣は嘆願とは申しながら多人数で兵器を携え、近畿各所へ屯集しているところ、寛大にも再三「理非分明」の(撤兵の)御沙汰を出されたのに、今もって抗言して撤兵しない。たとえ申し立ての筋に条理があったとしても、万一、御許容されるような事があっては「堂々たる天朝之御威光」もたちまち廃れる、実に「御大事な御場合」である。夷難が迫り、容易ならぬ時に、一旦朝権が地に落ちては後日の皇威振興は困難であるため、「速ニ断然と御処置」をされるよう、伏して懇願奉る。不肖ながら我々共は禁裏御警衛を勤め、朝威が廃れぬよう尽力仕っており、武門として黙止しがたく、三藩在京の重役共と一同相談し、嘆願奉る事である。

※上書は、7月15日に議奏正親町実徳邸等を訪ねて従来の朝命維持を訴えた薩摩藩吉井幸輔、土佐藩乾市郎平、久留米藩大塚敬介の三名(こちら)の連署で、有栖川宮・二条斉敬関白・近衛忠煕前関白・議奏正親町実徳等に提出されました。

<ヒロ>
長州の嘆願に一定の「条理」(の可能性)を認めているあたりが、会津・桑名の即時征討派との大きな違いです。

参考:『七年史』二p258-259(2018/2/10)

・会津藩(禁裏守衛総督一橋慶喜との対立)
【京】元治元年7月17日、長州との戦闘に備えて九条河原に布陣中の会津藩士と新選組は、討伐に慎重な禁裏守衛総督の一橋慶喜を「優柔不断で大事を誤る」として、宿舎に乱入して「暴挙」に及ぼうとしました。九条河原の会津責任者(長井)も新選組局長の近藤勇も彼らを抑えることができずに、松平容保に急使をつかわしました。容保は公用人の外島義直を差し向けて彼らを説得させたので、ことなきをえたといいます。しかしながら、容保自身も慶喜には強い憤懣を抱えていました。↓

【京】元治元年7月17日、会津藩主松平容保は、実兄の徳川慶勝(前尾張藩主)に、撤兵説得を続ける禁裏守衛総督一橋慶喜批判の書を送り、上京を促しました。

慶勝宛書簡によれば、容保のみるところ、慶喜は、討伐の決心をしながら、その都度、(親戚筋で親長州の)因幡・備前・水戸の働きかけで決心が鈍り、「人事を尽」くすべきと「因循」して撤兵説得を行っていました。容保は、「堪えかね」た諸藩も征討論を唱えだしたというのに、未だに「一決の御沙汰」が出ないのは「当惑の至り」であり、今後の慶喜の態度次第では「天下これより闇になる」とまで述べています。(※身内への手紙ということもあり、慶喜をぼろくそに批判しています。詳しくは一番下のてきとう訳で)

一方、慶喜は慶喜で、当時、会津藩にはへきえきしていたようで、後年の回想で、「会津の討ってしまえという論はなかなか激しいことだったよ」、「なかなか抑えきれない」と、述べています。慶喜は、会津藩の「討つという論もももっとも」で、当時、「これは結局戦争になるというのは、皆腹の中では知っていた」が、長州も「表向きはとにかく嘆願」であり、しかも「堂上方をはじめ諸藩も長州へ荷担する者はたくさんある」ので、「兵器を携えて入京したからといって、ただちに兵を用いては少し軽率になる」し、「どこまでも説諭して、どうあっても聴かぬ暁に事を発すれば名義が立つ」と考えていたそうです。「早まってやれば人事を尽くさずに兵を用いたということになろう。すんだ後がよほど面倒だろうという考えで、あそこはたいへん自重した」のだそうです。

参考:、『京都守護職始末』2p73-75、『昔夢会筆記』p247-249 (2001.8.18、2018/2/10)

>親長州派諸藩の動き(こちらも負けてません)
【京】元治元年7月17日、在京備前藩士等は、幕府に上書して、長州藩士等の嘆願を聞き入れ、藩主父子を召命して事情を糺すことを求めました。(『維新史料綱要』五)

>長州勢の動き
【京】元治元年7月17日、国許からの知らせを受けた長州藩留守居役乃美織江は、朝廷に対し、四国艦隊が下関来襲後に摂海(大阪湾)に侵入する可能性があるので、藩主父子が上京して天機を伺う旨を上申しました

<ヒロ>
このニュースを聞いた朝廷・幕府・征討派諸藩の「やはりそういう計画だったのか」という反応が目に見えるようです。一方、諸隊にとっては、13日に進発した世子の上京が間近に迫り(23日着京の予定)、気勢の上がることだったようです。(朝幕・諸隊の間を奔走する乃美織江が気の毒に思える今日この頃)↓

【男山】元治元年7月17日、男山に参集した長州藩士等は軍議の結果、会津藩主松平容保討伐、18日夜の進軍開始を決定ました。

洛中の情報を探知し、近々に衝突が起こることを察した長州勢は、男山に参集して軍議を開きました。久坂玄瑞・宍戸左馬介は、いったん朝命を奉じて兵庫に撤兵して世子の上京を迎え、そのうえで進退を決すべきだと自重論を主張したそうです。しかし、多くの意見は、松平容保を討つことを主張し、真木和泉や木島又兵衛も久坂らの意見に反対しました。結果、容保一人を目指して進軍することに決しました。

<ヒロ>
容保独りの討伐を掲げれば、京都・御所守衛の諸藩も戦わずして通してくれ、朝廷内でも反会津諸卿が動いてくれると期待したのでしょうか。進軍に先立ち、家老三名連署による容保追放の陳情書、長州浪士名義の送戦書・決意書を作成し、公卿・諸藩に投じています。(7月18日の項にupします)。

周辺地図:https://goo.gl/maps/xL6JmA8b7d72

参考:『維新史』四p80、『防長回天史』p六二五(2018/2/10)

>在京幕府(一橋慶喜)の動き
【京】元治元年7月17日夕刻、中川宮等と会した禁裏守衛総督一橋慶喜は、長州入京について、断然とした処置をとるよう主張しました。

この数日、朝廷内では、15日に決まった勅使派遣による長州説得に異論が起こっており、中川宮が慶喜に意見を尋ねたところ、どちらでもよろしいが「断然ニ御処置之有度」と「演舌」したそうです。

<ヒロ>
散々「不断」といわれてきた慶喜が、ここに来て「断然」の「処置」を主張しだしたのは、在京薩摩藩等の有力諸藩がここに来て活発に征討論を唱え始めたことや、乃美織江の上申により長州の武力で主張を押し通す意図がより明確になったことで、「事を発」しても「名義が立つ」と確信したからではないかと思います。

>朝廷の動き
【京】元治元年7月17日、長州処分の朝議が徹夜で行われ、結果、議奏・伝奏により当日(18日)期限の撤兵の朝命を伝達し、奉じぬ場合は追討と決しました。諸卿の退朝は巳の刻(午前10時頃)でした。

朝議には有栖川宮父子、中川宮、山階宮、二条関白、徳大寺右大臣、近衛内大臣、一橋慶喜等が参加していました。

<ヒロ>
薩摩藩等有力諸藩の征討の勅命の周旋に加えて、これまで討伐慎重派だった慶喜が「断然」とした「処置」を主張するようになったことが大きかったのではと思います。

参考:『維新史』四p78、『朝彦親王日記』一p4-p5(2018/2/10)

関連:「テーマ別元治1」 ■池田屋事件、長州入京問題、禁門の変
※(7月17日付徳川慶勝宛松平容保書簡のてきとう訳。()内段落分け、管理人)

〇先月23、24日頃より、長門宰相の家来の者が全く出陣の出で立ちで、表向きは嘆願のように申し立て、伏見あるいは嵯峨、山崎あたりに屯集いたし、大砲を並べ、細木()をつらね、「威猛」を誇示する体は「強訴」の姿であり、「嘆願の心」ではない。27日には伏見の長州藩士が「押して入京」を申し入れてきた。同所の役人並びに大垣の家来共からもその注進があったので、(会津藩の)家来の者を竹田街道に差し向け、自分も病体のままで参内し、(朝廷を)御警衛仕り、そのまま(御所内)凝花洞の仮陣屋に詰めている。しかし、「未だ親しき事を執」る(=朝命を執行する?)ことにもならず、(長州処分は)一橋殿へ御委任とのことなので、自分の家来が参殿し、(朝廷の意思を)伺うこともない。

〇一橋殿にも、「最初は大いに憤発」して、(6月)27日には、朝議で直ちに追討すべきとの発言もあった。しかし、「その日はその場も遁れ候えば、いずれも人事を尽し候には如かずと申す議にて」、当(7月)2日(※)に大監察永井主水正、小監察戸川鉾三郎を伏見につかわし、退去を厚く論解した。御所の沙汰(こちら)をもって申し聞かせたにも関わらず、それ以来、(長州は)かれこれ申し立て、退去せず、「もはや追討の外はこれあるまじくと一橋殿も決心致され候ところ、またまたその説を変じ、この上にも人事を尽したき旨にて」、諸藩に説得する申しつけられた。しかしながら、朝命、幕命をもってした大小監察の論解にも承服しなかったほどで、諸藩の家来共による論解が届くはずはなく、しかも(長州にとっては)不体裁の至極である。よって、(諸藩は長州説得を)恐らく御請しないと思っていたが、御請け申し上げた藩があり、(その結果、長州は)当11日までには、(撤兵の命に)服するかどうかを申し出で、そこで「決着」するはずだった。ところが、その間、(長州が)事情があって後日御請申し上げるなど申すので、「一橋殿はまたまた御勧め」(=前16日の撤兵勧告を指す)になった。その辺のところは、「なにぶん筆紙に述べがたく候つまり、一橋殿御勧めにより起り、そのまた起りは、水、因、備三藩等の入説より出で候由に御座候」。(=要するに、この状況は、慶喜の「人事を尽くしたい」がための度重なる撤兵勧告が引き起こしており、それも元はといえば慶喜の親戚筋で親長州の因幡・備前・水戸藩の入説によるものである

〇前に申し上げた「強訴の者(=長州勢)御許容」になっては、「朝憲、幕威もこれより地に堕ち、天下は暗夜のごとく」、そのうえ長藩の申し立てるようになれば、脱走堂上(=三条実美ら)の復職、浮浪(=浪士)の入説等は、昨秋以前(8.18政変以前)より「幾倍か暴なる世界」となることが目に見えている。しかるところ、「一橋殿、御決心鈍り、数日の間因循致し候中」、彼(=長州)は鎮撫を名として、ますます大兵を引き入れ、備えを厳重にし、制し難き様子になっている。それで、「諸藩も堪えかね」、熊本、久留米、薩州、土州、従って御譜代の諸藩共も同様に「憤発」し、一橋殿あるいは宮方、堂上方へ出て、右の建言(=長州征討の建言)を行っている。この儀は正しく、勢いも強いのに、なお「一決の御沙汰」(=征討の朝命)」が出ないのは、「じつに当惑の至り」である。

〇一橋殿についてこのように申し述べるのは「不本意千万」だが、(一橋の優柔不断は)「天下これより闇に成る、成らず」、随って、「宸襟の安、不安」とにかかわり、軽重比較しがたいことであり、また(慶勝は)他の御方とも違い、寸分も伏蔵(=腹蔵)があってはかえって恐縮であるので、直情に申し上げる。

〇このように(長州処分の)「決着」がつかず」、種々の議論を生じ、畢竟、「幕府の御因循」より事が起ったという申すものもある。「一通りもっとも」だが、(幕府の因循は)以前からあるわけで、彼より押し来り候上は(=長州が武装上京してきた上は)、かれこれの議論は関係ないと存じる。一橋殿にも前段の通りであり、(自分も)天下の大任(=京都守護職)は、病床にあってはなんとも耐えがたいので、(慶勝がの)御快方次第の御上京をお待ちしている。
(出所:『京都守護職始末』収録の容保書簡より作成)

<ヒロ>
・これまで、会津藩公用方が征討論の入説に動いていなかったのは、容保が、慶喜への万事委任の朝命を重んじてたからなんですね。愚直すぎる・・・。(京都守護職と禁裏守衛総督の役割分担があいまいなのも問題です)。
・当然といえば当然ですが、「朝威」だけでなく「幕威」も気にしている・・・この点が、征討派諸藩の考えと大きく違うところで、8.18政変そして池田屋事件の当事者ということに加えて、諸藩から一線を引かれていた理由なのかも。
・水戸・因幡・備前は完全に敵扱いです。(向こうも同じことですが)
・慶喜の動向が「天下これより闇に成る」かどうかの鍵だという認識は、やはり慶喜に批判的な西郷たちも共通するものだったのではないでしょうか。

関連:テーマ別元治1 ■池田屋事件、長州入京問題、禁門の変 ■一橋慶喜の評判


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