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元治元年7月19日(1864年8月20日) 

【京】長州勢討伐の勅
【京】禁門(蛤御門)の変勃発
【京】長州勢敗走、「どんどん焼け」

☆京都のお天気:晴。炎暑甚 (『嵯峨実愛日記』)

>朝廷・幕府の動き
■長州追討令
【京】元治1年7月19日未明、伏見で大垣藩が長州勢と戦闘に入ったことを知った禁裏守衛総督一橋慶喜は、孝明天皇に謁し、長州追討の勅許を得ました。

天皇は、伝奏を通し、「長州脱藩士等、挙動頗差迫、既開兵端之由相聞、総督以下在京諸藩兵等、尽力征伐、弥可輝朝権」という勅書をを下しました


長州勢が朝敵とみなされることが確定した
一方で、親長州派の主張する会津藩主松平容保の御所追放については、慶喜も反対し、実現しませんでした。

(中山忠能日記の18日の条のてきとう訳)
・丑刻(午前2時)頃、(天皇が)一橋と御対面になるので列参の一同も聞くようにと達しがあった。一橋は中段に進み、屯集の徒が続々と進発し、只今、鳥羽伏見で開戦して防戦の最中であるので、「追討可申付伺」ったところ、殿下(=二条関白)が取り合い、「早速ニ追討」と命じられた。
・右の通り故、(自分たちが出した会津追放の)建白の(天皇の)御返答はないよし。一橋は、会を(九門から)出すのは「勤労之士」を殺すようなもので「頗御不憐愍之由」を述べたとか。二十五万石の大名(=会津藩)が長州家老の軍に必ず打殺されるというのは「実以不埒之申条」だが、終に(追放は)行われなかった。

(嵯峨実愛日記の18日の条のてきとう訳)
・丑の刻(午前2時)前、一橋中納言が参上し、「長士暴挙」については討つほかないと言上した。小御所で(天皇が)一橋に御対面して事情を聞かれ、殿下以下列参の諸臣の前で、一橋の言上の内容を一同に聴聞させ、諸藩の手配を命じられたので、列参の輩は右大臣(※右大将の誤記?)以下「憤怒・退散」した。その次第は朝憲を憚らず、臣子の分も立たず、不当の至りだが、今夜は「混雑中」ゆえに寛恕された。この間、既に五更(=寅刻=午前4時頃)になっていた。ときに、下辺では大砲の音が遠くに響いており、既に戦争が始まっているようだった。

参考:『嵯峨実愛日記』一p6〜7、『中山忠能日記』二p208〜209、『七年史』二p270、271(2018/4/1)
■諸侯の参内
【京】元治1年7月19日明け方、守護職松平容保(会津)、所司代松平定敬(桑名)、老中稲葉正邦(淀藩)ら在京幕府要路をはじめ、諸侯が藩兵を率いて続々参内し、慶喜の指揮の下、御所の警衛につきました。(容保・定敬は、病を押しての参内でした)


>禁門の変勃発
【京】元治1年7月19日明け方、長州勢(山崎勢・嵯峨勢)が御所周辺に達し、築地内外で御所守衛の諸藩兵との間で戦闘になりました。「禁門の変」勃発です。一番の激戦地が会津藩の守衛する御所西側の蛤門だったので、「蛤門の変」とも呼ばれています。

■長州勢の戦い
鳥羽伏見で大垣藩と開戦した福原越後隊は、大垣藩に阻まれ、その戦闘で福原が負傷したため伏見に退却。残りも彦根・会津藩兵に阻まれて山崎に敗走したため、入京できませんでした。

御所にまず到達したのは、嵯峨天龍寺に屯集していた国司信濃隊及び遊撃隊でした。国司信濃隊は筑前藩の守衛する御所西側の中立売門を突破して蛤門にいたり、また、遊撃隊は柵を破って蛤門に突入しました。会津藩は一時劣勢に立たされたものの、乾門警衛担当の薩摩藩や桑名藩が来援し、両隊は敗走しました。遊撃隊の木島又兵衛は狙撃されて負傷し、
自決しました。

図:御所(外講九門&内講六門)の模式図

山崎に屯集していた真木和泉・久坂玄瑞らの諸隊は遅れて御所南側の堺町門に達しました。しかし、守衛する越前藩の守衛が固く、突破できなかったため、鷹司前関白邸の裏門から同邸に入り、そこに立てこもって諸藩と砲火を交えました。久坂・寺島忠三郎らは、鷹司家の諸大夫に閲し、事情を訴えたそうです。しかし、会津・薩摩・彦根の砲撃で鷹司邸が火を発したために、支え切れず、敗走しました。なお、久坂・寺島は、鷹司邸で自刃しました。

こうして、長州勢は多数の死傷者を残して敗走しました。また、京都藩邸留守居役乃美織江は藩邸を焼いて京都を脱出しました。

<ヒロ>
どっち側も放火です・・・。

参考:『維新史』三p86〜89(2018./4/7)

■御所内部の動き
〇孝明天皇の御所立退きvs容保
【京】元治1年7月19日、砲声・砲弾が御所内に届き始める中、孝明天皇の立ち退きの準備が始まりましたが、京都守護職松平容保は、孝明天皇に閲し、これを諫止しました。

御所内にまで砲声が響き、また鷹司邸に潜んで御所突入を図る長州勢の打つ砲弾がしばしば常御殿の玉座近くに届いたため、御所内は「大混雑」となり、天皇立退きの準備が始まりました。玉座近くを警衛していた容保は、天皇に謁見を請い、「不慮之変事」ではあるが「乍不及(およばずながら)粉身を尽奉守護」するので動揺せぬよう直言したので、天皇は落ち着いたそうです。

参考:(元治1年)7月20日付(在京会津藩士安藤彦十郎)書簡(『稽徴録 京都守護職時代の会津藩史料』p84)、『徳川慶喜公伝』3(2018./4/7)

〇親長州公卿による容保追放の主張vs慶喜
【京】元治1年7月19日、再び参内した親長州公卿は、容保の御所追放を主張しましたが、慶喜は拒絶の談判を繰り返しました。

<ヒロ>
在京幕府首脳である慶喜と容保/会津藩の間は、17日には、容保が兄徳川慶勝(前尾張藩主)に慶喜批判の書を送るなど(こちら)、悪化していましたが、この日を機会に、改善していきます。

参考:『嵯峨実愛日記』一p10(2018./4/7

〇残兵追撃の勅
【京】元治1年7月19日、慶喜から長州勢の敗走を報告された孝明天皇は、残党の追撃を命じました。

しかし、長州勢が市中のどこに潜伏しているかわからないため、怪しいと思われる場所に焼玉を打ち込んで火を放ったそうです。潜伏していた長州勢は焼け出されたところを討ち取られました。

参考:『徳川慶喜公伝』3p74(2001.8.20)、『玉里島津家史料』三p461

■どんどん焼け
長州藩は敗走し、御所の戦闘は一日で終りましたが、双方の放った火によって起った大火災は21日朝まで続き、広範囲で多くの家屋・寺社が延焼しました(「どんどん焼け」)

(勝海舟日記の7月19日の条のてきとう訳)
〇昨夕(ママ)、京師の方に大火があるのか、暮れ六つ時頃から赤色が見える。「必ず非常あらん」。

(壬生在住の町人高木在中の日記の7月19日の条のてきとう訳)
〇長州の落武者が町家へ潜伏しているのではと言い、町家へ次々に大砲を打掛け、焼け渡る。上立売・中立売南側、烏丸・室町の間が焼け、それより南は仏光寺まで、西は西洞院東側、東は寺町まで焼ける。人々が泣き叫ぶ声、大砲を打つ音で、「大混雑之次第、誠ニ以天地震動ス」。十九日夜七つ(16時頃)前から、町々が鎮火につとめ、大方、二十日朝六つ半(7時頃)には火が止まり、ひと先ず安堵していたところ、五つ時(8時頃)、また所々で大砲を打掛け、焼きたてる。会津藩、彦根藩が焼き立てに回る。焼け残りの町家は、またまた取る物も取り合えず、上へ下へと震動する。東本願寺は七つ時(16時頃)に焼失。

(7月20日付大久保一蔵宛小松帯刀書簡よりてきとう訳)
〇明方より打ち込んだ砲火によって鷹司邸より出火。一方は室町より出火し、「余程大火」になった。
参考:『維新史』三p92、『玉里島津家史料』三p461、『幕末維新京都町人日記』p217,、『勝海舟全集1 幕末日記』p158

※↓以下、2001.8.20にupした分です。
(新選組は)
京都守護職会津藩御預かりの新選組については、隊士が後年書いた回想録等には華々しい活躍が描かれていますが、『京都守護職始末』によれば、実際はそうでもなかったようです。九条河原に布陣していた会津藩のうち長坂隊と新選組は最初伏見に向かったが戦闘が終了しており、九条河原に戻ったそうで、次に蛤御門で砲声がするのでそちらに向かうと、そちらでも戦いは終わっていたそうです。鷹司邸を攻撃したのは会津の坂本隊や彦根兵とのことで、鷹司邸から敗走する長州兵を追撃し、多くの者を斬ったのも彦根兵だといいます。仙台藩士の記した『官武通記』によれば、やはり、会津藩と新選組は敗走する長州兵に備えて九条河原を動かずにを守っていたが、近藤が「御所で戦いが始まったようだ」と知らせたので、出陣したが、御所の戦闘はほとんど終わっており、残敵追討しか残っていなかったとしています。

参考:『徳川慶喜公伝』、『京都守護職始末』、『七年史』、『新選組戦場日記』

歴史会議室に「禁門の変と久坂玄瑞」スレッドがあったのですが、ぷららがいつの間にかCGIサーバーを消滅させたため、消えてしまいました。冬湖さんはじめ、インプットしてくださった長州ファンの方、すみません)。

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