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阿部十郎(隆明)

【直情径行型で同志思いの鉄砲屋】
新選組に入隊したものの池田屋の前に近藤勇の横暴に反発して脱走。伊東甲子太郎が「人物」ときいて再入隊。師匠の谷万太郎が老中板倉勝静と関わりがあったため復隊に問題がなかったいう。それどころか、伍長&砲術師範。一本気で癇が強い。伊東らとともに衛士を拝命して分離。油小路事件当日は鳥討ちで外出しており難を逃れた。そのためよけいに復仇に燃えたようで、沖田総司襲撃未遂&近藤要撃に参加。鳥羽伏見の戦い後は同志とともに赤報隊結成に参加した。偽官軍事件で三樹三郎・新井忠雄・篠原秦之進が拘留されたときは、赤報隊を率いて獄を破り救出に行くと息巻いて周りになだめられた。維新後は、北海道開拓使に出仕。開拓使退官後は果樹園を経営して成功し、北海道果樹協会を設立した。
名前 阿部十郎(阿部隆明) 
出身 奥州出羽(秋田県由利郡)
生没年 天保8(1837)年8月22日誕生/明治40(1907)没。墓所は不明。
語録 準備中(とにかく面白いのでお楽しみに♪)
その他 明治元年に阿部十郎が津軽藩士葛巻行雄に話したとされるところによると、阿部は毛内監物と特に懇意にしており、毛内の母滝子の歌なども度々見せてもらったという。
年表 生い立ち 新選組・御陵衛士 赤報隊・戊辰戦争 明治(準備中)

【小伝】

(1)新選組加盟まで

阿部は奥州出羽(秋田県)由利郡羽広村出身。父は太郎兵衛・母はよね。時期不明ながら亀田藩士高野林太郎の養子となる。脱藩時期は不明だが、縁者に伝わる話では、藩主が参勤交代の時に共をし、そのまま脱藩したのではないかといわれていたそうだ。(以上、『阿部十郎隆明伝』)。一時、水戸に滞在したことがあり、そのときに吉成勇太郎(藤田小四郎の剣の師匠・のちの本国寺党)ら水戸藩尊攘激派と知り合ったようである。

■谷万太郎の弟子

阿部は、26歳頃に大坂へ出て、南堀江で道場を開いていた備中松山藩出身の谷万太郎に入門したという。万太郎が兄三十朗、弟周平とともに新選組に入隊することになり、万太郎の勧めもあり、新選組は「勤王で攘夷だから」というので上京して入隊したという。(『史』)。

【関西に出た時期】生年から計算すると元治元年(1864)年になるが、後年の記録でなので記憶違いの可能性はある。実は文久3年7月頃の隊士名簿(『新選組史録』収録)に阿部慎蔵という名がみられる。この人物が阿部ではないかといわれている。十郎=慎蔵だとすれば、大坂に出たのは元治元年ではなく、文久3年になる。ただし、谷兄弟の名は、上記7月頃の名簿に見られない。名簿類に彼らの名前が見られるのは池田屋事件後のことなので、彼らの入隊は文久3年8月〜元治元年5月頃の間となるだろう。従って、「谷兄弟が入隊することになったので」勧められたという史談は事実と違うことになる。

(2) 脱走と復隊

■新選組脱走

さて、「勤王と攘夷」だと思って新選組に入隊してみたが、その実態は期待とは異なっていた【阿部の談話】。近藤のやり方を憎む同志(数十名?)と近藤を倒そうとしたが、見込みがないので、いっそ解散するがいいと、元治元年(1864)の禁門の変前に脱走したという。なお、この時期に大量脱走があったことは、同時代の風説を記した「官武通紀」においても、「四十八人のうち前もって出奔。当日(=池田屋事件当日)出役三十人ばかり」と記されている。

阿部は脱走後は、元治元年に筑波で挙兵した天狗党(集義隊か?)残党の薩摩出身河畑某とともに在京水戸藩吉成勇太郎(本国寺党)宅に潜伏。吉村宅を訪ねる薩摩藩中村半次郎としばしば会ったらしい。しかし、池田屋事件・禁門の変と続いて、京都では浪人の詮索が厳しくなり、大坂に移った。(阿部談『史』)

大坂では再び谷万太郎を頼ったようで(万太郎は、入隊後も大坂に道場を構え、大坂方面の探索等を行っていた)ある。慶応元年(1865)1月の道頓堀ぜんざい屋事件では、万太郎の弟子高野/高埜(たかの)十郎として、万太郎らとともに土佐浪士捕縛に出向いている。いうまでもなく高野は養家の姓である。

■脱走者の復隊、伍長兼砲術師範に

ぜんざい屋事件に前後して、かねてから意を共にしていたという浅野薫が所用で下坂した。浅野はひそかに阿部に会い、「今度、東京からきた伊東甲子太郎という者が同志を十四・五人連れてきたが、これは至って人物もよし、近藤ごとき者ではないからして、共にこれは謀るべき人物であるから、お前も一旦帰ってともに力を合して、又た一方謀ることもあるだろうから」と復隊を勧めた。阿部は脱走者だが、「其の帰ることに付いては何にも心遣いにならぬように決して粗暴なことの出来ないようにする法があるから」という。どういうことかというと、「近藤勇が、どうかして板倉-御老中の周防守(備中松山藩主板倉勝静)に取り入れようと思いますけれども、手続きが出来ませぬでございました。そこで私の師匠(谷万太郎)が元と板倉の家来でございましたから、之れを一旦帰藩さして之れを使って己れが板倉周防守へ取り込もうという料簡」だったのだという。「決して危ないことはないから帰れ」といわれて、ソンなら、と復隊を決めたという。(以上、阿部談『史』より)。もっとも、浅野薫の名も文久3年7月頃の名簿にはないので、両人は阿部の脱走後に知り合ったことになる。

こうして阿部は復隊した。浅野の言う通り、谷の口ぞえがきいたのか、脱走者としての処罰(切腹)はなく、それどころか夏の編成では砲術師範になったようである(「壬」)。同年2月には副長の山南敬介が脱走の廉で切腹されたともいうが、だとしたら、阿部の扱いは破格である。(もっとも、管理人は脱走説には否定的だが→【「覚書」山南敬介(3)脱走説に疑義 )】。阿部の復隊の時期は確定できないが、慶応元年夏頃の名簿(「英名録」)に「奥州二本松阿部信次郎」という名がみられる。これが阿部だとすると、さすがに脱走前と同じ名(阿部慎蔵)を名乗るのをはばかったというところだろうか。(古参隊士にはばればれだと思いますが^^;)。

(3)御陵衛士時代

伊東らと同志となった阿部は、慶応3年(1867)3月、伊東らともに御陵衛士を拝命し、3月20日、新選組から分離した。

■脱走隊士浅野薫

時期不明だが、阿部に新選組復隊を勧めた浅野薫が新選組を脱走してきた。阿部らは彼を山科に匿い、京都から土佐へ落とす算段をした伊東が書簡を認めている最中、浅野は近藤を説得しようとしたのか新選組屯所に向かい、沖田総司に斬殺されてしまったということもあったという(阿部談『史』)。(考えてみれば、阿部を誘った浅野が一緒に分離しなかったのは不思議です)。

(4)油小路事件

■伊東を諫止

慶応3年11月18日、伊東が近藤に呼び出された。この日、阿部は内海次郎と大和街道方面に鳥撃に出かけたが、出立前、「それは危ない。お前は近藤の昔からのことをよく知らないだろうが、自分は(隊歴が長かったので)お前よりよく知っている。近藤は奸智に長けているから、事によると危ないから行くな」と強く忠告したという(阿部談『史』)。しかし、考えのあった伊東は近藤を訪問し、その帰途、七条油小路で新選組に暗殺された。囮として晒された遺体を引取りに出かけた衛士らは待ち伏せの新選組数十名に襲撃され激闘となり、藤堂平助・毛内監物・服部三郎兵衛の3名が戦死した。

■斬り込んで死ぬ覚悟

阿部の談話によると、明け方3時頃、外泊中の阿部・内海(伊東道場の塾頭だった)に伊東暗殺の知らせが届いた。鳥撃ち銃に二つ玉を込めて(阿部は新選組では砲術師範だった)約3〜4里の道を高台寺に急行したが、すでに明け方直前だった。新選組に占拠されていると見て、斬り込むつもりであった。阿部は、道中内海に向かって「到底一緒には逃げられないから、近藤か土方がでてくれば二人のうち一人は是非撃ち止めるから、発砲したらすぐに逃げろ。わたしは撃たれるようなことはないから」と言い聞かせていた。しかし、高台寺に人影はなく、そこですぐに鉄砲を捨てて稽古着ひとつになって油小路の現場に向った。そこにいるはずの新選組に斬り込むためだ。だが、見張りの隊士は朝食を食べに新選組屯所に引き上げていた。(阿部談『史』)。このとき、月真院に急を報せるためにやってきていた町役人から油小路事件の一部始終を聞いた両名は驚き、役人を帰すと賄方・下男の二名を呼び出して「もはや死節が到来した。所持品な残らず其の方どもに遣わそう」と申し渡した(岡本武兵衛聞書)。新選組の屯所に斬りこんで討ち死にするつもりである。

ところが、阿部らが屯所に斬りこんで討死しようととしていたところ、普段から密偵として使っていた者がでてきて、「今、50人近くの人数が屯所に戻ったところで、そこへおまえら2人が乗り込んでも犬死だから、考えなおせ」と忠告した。いろいろ考えると、ここで自分たちが討死しては、真実を告げる者が誰もいなくなり(この時点で誰が生き残っているか不明だった)、近藤らにどういう作り話をされるかわからない。ここは討死する場所ではない」と考えなおした。(阿部談『史』)

■晒された遺体の引取り

油小路を去った阿部と内海は、泉湧寺塔頭戒光寺に赴き、懇意にしていた長老湛念に、油小路に晒されたままの伊東ら4人の遺体引取りを依頼した。しかし、新選組は、4人の遺体を囮に残党をおびきだそうと考えており、近藤は、戒光寺の使者に、同志の者でなくては遺体は引き渡せないと拒絶した(阿部談『史』)。近藤は、遺体引取にやってくる衛士残党の殲滅をはかるつもりである。

■土佐藩相手に啖呵

遺体収容と葬儀をあきらめた阿部と内海は、河原町土佐藩邸に保護を求めたが応対の留守居役?に断られた。阿部は「土佐藩は大藩で勤王藩であるときいていたのに匿うこともできないとは見下げた話だ。追手がかかりどこへも逃げ場所のないので、せめて座敷を貸して切腹させてくれ」と迫るが追い払われたという。しかたなく、その夜は戒光寺に戻って潜伏した。

11月20日朝、白河の陸援隊屯所に向うと、門前に薩摩の中村半次郎が待っており、中へ入れてくれた(阿部談『史』)。夕刻、今出川の薩摩藩邸に。やはり逃げ込んでいた篠原と合流。(「京在日記」)。この日、阿部らは中村から坂本・中岡暗殺の一件について質問された(「神山左多衛日記」)。

11月21日、伏見の薩摩藩邸に送られる(「京」、「秦」)。三樹・富山・加納と合流。土佐藩の谷干城らが彼らを訪ねて坂本・中岡暗殺犯について質問した。

■同志の復仇−沖田総司襲撃未遂・近藤勇要撃

その後も阿部らは伏見薩摩藩邸に潜伏していたが、12月初めに中村半次郎から「もう大抵お前たちも出て歩いても宜かろうというから、彼等の挙動を探れ」と言われ、探索を始めた。同月17日、京都に行っていた加納が、近藤妾宅に沖田総司が潜伏していることを知らせた。翌18日早朝、佐原は阿部・内海とともに、沖田総司を襲撃するために京都へ向かった。ところが、沖田は一足先に新選組が宿陣する伏見奉行所に向かっており、襲撃は未遂に終わった。 【関連:御陵衛士−Survivor's guilt

この後、三人は、阿部が懇意にしていた一橋家御用達で「男伊達」の清水磯吉を訪ねた。磯吉は阿部らの無事を見て大いに喜び、朝から何も食べていなかった彼らに昼食を供した。さらに、近藤襲撃のための武具を買う金の借用を言い出しかねている彼らに、小遣だといって50両を差し出した。

「(磯吉も)大きに喜びまして、撃たれなかったか、先ず仕合せであったと言って、色々御馳走をして呉れました。私も切迫して居りますからどうか助勢を受けて、其時分でございますから中々銃砲を撃つような考はございませぬ、何でも斬ろうという考でございまして、どうにか小手とか鉢巻だけも七、八人居ります同志の者に買って遣り、そうして近藤を撃とうという考えでございまして、金を借りたいと思いましたけれども、何分申し兼ねて居りました。所が其男が五十円包を出して呉れまして、お前たちも小使いにも困るだろう、之を持て小使にしろといって五十円呉れましたから大きに喜びまして、それから寺町で小手と鉢巻を買って居りました。」
(明治33年の阿部の談話『史』)

寺町の武具屋で小手・鉢巻きを購入していた三人は、偶然、近藤が警護を連れて伏見に向かうのを目撃し、急いで薩摩藩邸に戻って同志に報知した。居合わせた篠原・加納・富山を加えた六名は、伏見街道丹波橋筋で近藤を待ち伏せた。阿部・富山は鉄砲を構えていた。鉄砲を撃ち込んだら警護の者や近藤が斬り込んでくるのを迎え撃つ計画であったという(当時の鉄砲の精度から撃ち殺すことは想定していなかったらしい)。しかし、鉄砲玉は近藤の肩にあたり、近藤は重傷ながらも馬を走らせて逃げおおせ、警護の者も逃げてしまったので、ニ、三人を斬るに終わった。

「鉄砲二挺持って居りましたけれども、固より其時分のことでございますから我々は鉄砲を当てには致しませぬで、鉄砲を撃ちましたら定めて煙を望んで斬り込んで来るだろうという考で、それから篠原秦之進と加納道之助両人に槍を持たせまして、途中、万一近藤が逃げたら槍で突けといって脇に伏せました。そうして、私と富山弥兵衛両人でそこに空家があったから、それへ入って狙おうというところへ、富山が「きた、きた」という間に一発撃ってしまった。その鉄砲が近藤の肩と胸の間に当たりました。夫故急所をはずれた為、助かりました。それで鉄砲を撃ちましたら果して煙を望んで斬込んで来ると思いましたら、二十人ばかり付て居るのが鉄砲の音を聞くと、バラバラ逃げて仕舞った。私は鉄砲を捨てて抜いて掛かりました。佐原太郎という者もいきなり斬って掛かりました。所が近藤は馬に乗って居りまして、胸を撃たれた、けれども鞍壺に掴って三人ばかりが馬の脇で刀で馬の尻を叩きますから、馬がドンドン駆けます。佐原太郎が今一足という所で近藤の足を切ろうというところで馬の為に到頭逃げられました。ニ、三人斬下げましたけれども近藤には逃げられました。追って行くことは出来ませぬ。我々は朝七つから奔走致しました身体でもう草臥れて居ります。それに近藤は馬に乗って逃げましたので逃しました」
(明治33年の阿部の談話『史』)

ちなみにこの従僕は、油小路において、伊東に恩がありながら暗殺メンバーに加わっていた勝蔵だという説がある(「壬」)

現場は伏見奉行所も近く、先に逃げた者の報知によって新選組が繰り出してきた。阿部らはやむを得ず鉄砲・槍をもって京都に逃げた。三条に着いた時には日が暮れていたという。柏屋で支度をし、伏見に戻った。

(5)赤報隊・戊辰戦争

■赤報隊二番隊

阿部は、慶応4年1月の鳥羽伏見の戦いでは、同志とともに薩摩藩一番隊として戦った。同月6日、同志と、前侍従綾野小路俊実(新政府参与大原重徳の息子)を奉じて京都を脱出。江州松尾山に向かった。同8日、合流した相楽総三らともに挙兵し、赤報隊を結成した。阿部は三樹を隊長とする赤報隊二番隊に属した。彼らは信州に向かって進軍したが、26日に新政府太政官から京都帰還命令が下り(こちら)、これを無視して進む相楽の一番隊と袂を分かって京都に向い、2月8日に帰京した。(『相楽総三と其同志』)

■同志の改葬

帰京した彼らは、2月13日に、朝命により、油小路で横死した伊東ら4名・及び会津藩邸で横死した茨木ら4名の遺体を孝明天皇の御陵のある泉涌寺塔頭戒光寺に改葬した。葬儀は大名にも珍しいほど盛大で、雨天の中、生き残りの衛士7名(三樹・篠原・新井・加納・富山・内海・清原・江田・佐原の9名のうち7名か?)は騎乗、その他150人ばかりが野辺送りをし、その費用は新政府参与の役所から出された。(津軽藩士葛巻行雄書簡)

■「獄を打ち破り、敵する者は一戦に及ばん」

しかし、その直後、彼らを思いもかけぬ事態が襲った。赤報隊偽官軍事件の嫌疑を受け、三樹・新井・篠原が投獄されてしまたっのである。このとき、投獄された同志の身を案じた阿部は、赤報隊を率いて獄を破り救出に行くといきまいて周りになだめられるという一幕もあったそうだ。残りの赤報隊は油川錬三郎(三番隊長)とともに阿部が統率した。幸い、嫌疑が晴れて、3月7日に三名は釈放されたが、薩摩藩お預かりとなり(「秦」)、赤報隊には帰隊できなかった。

■徴兵七番隊

赤報隊の訓練は彦根の人坂郡刀斎によって行われていたが、阿部の依頼で薩摩から教官が派遣され、英国式の訓練に。閏4月、軍務官軍曹伊藤源助(のちの大村益次郎暗殺首謀犯の一人)が赤報隊の取締に。訓練優秀と認められ、親兵に取り立てられて徴兵七番隊の隊名を授かり、四条少将の指揮下に。阿部は一番隊長を務めた。軍無償に転属となっていた油川は依願して徴兵七番隊に戻ってきたが、薩摩藩預かりとなっている三樹・篠原・新井の旧御陵衛士赤報隊幹部は合流しなかった(合流できなかった?)。阿部は、5月以降、四条少将に従い転戦し、12月に東京に凱旋した。徴兵七番隊は明治2年に、兵制改革により東京で解隊し、阿部は11月に依願免職となった。翌12月に弾正台少巡察に任じられ、京都支台に配属された。(『高』)。

(6)明治

■殉難同志の墓碑建立

■開拓使・佐賀の乱・果樹協会

弾正台は明治4年7月に廃止となった。阿部は明治5年2月、北海道開拓使に出仕。明治7年の佐賀の乱の際には、開拓使長官黒田清隆の命を受けて探索活動のため長崎出張した(阿部談『史』)。開拓使退官後は果樹園を経営して成功し、北海道果樹協会を設立。明治32年、33年の2度に渡り、病をおして史談会で証言を行った。明治37年までには篠原との連絡を絶っている。史談会での発言で暗に篠原を非難したことが原因かもしれないし、病が篤かったのかもしれない。その3年後の明治40年、東京で死亡した。享年71歳。
02/9/13、04/11/2


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