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9. 「今日」は会津藩の守護職拝命^^。やはり会津以外の史料も・・・
2002/09/26(Thu) の井戸端投稿より

みなさん、こんばんは〜。

予告通り?「今日の幕末京都」で文久2年を始めました。まず閏8月1日の守護職拝命に向けての動きです^^(こちら)。

今回の追加分は越前藩の『再夢紀事』もかなり参考にしています。それにしても、毎度思うことですが、会津の資料を読んでいただけではでてこない情報のてんこもりでした!ちょっと守護職事件簿などを書き直さないと。

『再夢紀事』にのっていたこと・・・たとえば。

■守護職拝命の条件:町奉行に永井尚志・所司代に牧野忠恭

会津藩が守護職を請けると返答するまでの条件闘争というか・・・町奉行の永井尚志と新所司代の牧野忠恭(長岡藩主)の任命が容保の希望だったのは知らなかったなぁ。なんでこの二人なんでしょうね。永井も長岡藩も会津と同様、新政府軍と戦ったわけだから、会津の見込みはある意味正しかったような気もしますけど(牧野とは権限をめぐってぎくしゃくしたらしいけれど: こちら)。

■守護職拝命を決めるまで容保、登城せず

守護職の内命が下る前から会津藩が拝命と決めるまでの間、容保がずっと病気で登城しなかったのも知らなかったです・・・。登城すれば守護職就任を迫られるのを嫌っての仮病なのかとも思いますが、ちょっと不明・・・。

■越前藩との会盟

また、8.18政変(禁門の政変)で活躍する会津藩士秋月悌次郎が越前藩中根雪江を訪ねて「会盟」を申し込むあたりもツボでした(いや、それより前は行き来してなかったのも驚き。桂小五郎なんかはずいぶん前から越前藩訪ねてるのに)。

■野村左兵衛、横山常徳

野村左兵衛(筆頭公用人)や横山常徳(主税)(家老)といった人物も続々登場してきました。わたしはこの両名は秋月・広沢といった人材を登用した守護職を考える上でのキーパーソンだと思っているのです。負組会津の人物だし、会津戦争以前に亡くなっているからか、あまり有名ではないと思いますが、このサイトにはしょっちゅう出てくる人たちなので、心に留めておいてくださいネ。

横山については、まえに井戸端で「江戸の三家老」(残りは水戸の武田耕雲斎、宇都宮の戸田忠至)だと御紹介した人物なんですけれど、野村も、越前藩資料でも、会津一のすごい人物らしい・・・みたいなことを書かれていました。

■野村左兵衛・・・守護職を調べるきっかけ

実は、この野村、わたしが守護職について調べるようになったきっかけの一つなんですヨ。衛士とも縁があって、新選組を分離するときに伊東が話しにいった相手が野村です。でも、慶応3年5月に亡くなっちゃうんですよね。その後に会津藩邸での新選組尊王派隊士横死事件が起こるわけで・・・野村が生きていたら、彼等をむざむざ死なせたろうか・・・油小路はあったんだろうか・・・大政奉還後の会津は?鳥羽伏見はどうなっていたのか?・・・から始まって筆頭公用人の役割は?みたいなことを考え出したのが2年半くらい前かなぁ・・・^^。でも、いまだもって疑問の答えはでてません^^;。なにしろ、まだ文久2〜3年で停滞しているし^^;、あっちこっちに浮気してるし^^;。


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