名前 | 横山主税(名:常徳 つねのり) |
誕生 | 寛政10(1798)年、横山伝兵衛常明の次男として誕生。伝兵衛の兄会津藩家老横山五八郎常元の養子となる。 |
死没 | 元治1(1864)年8月7日、会津で病没。享年数え67歳。墓所:大窪山墓地 |
小史 | 横山家は代々家老職の家柄である。横山は安政3年に江戸詰若年寄、同5年に江戸家老に進んだ。当時、江戸の「三家老」(会津藩横山常徳、水戸藩武田耕雲斎、宇都宮藩間瀬和三郎/戸田忠至)の一人に挙げられていた。文久2年に京都守護職の内命が下ったときは、最初は反対だったが、容保の決意をきいて拝命に同意。公用局設置に尽力し、秋月悌次郎 ・広沢富次郎(安任)らを登用した。しかし、元治元年5月に重病のため帰国し、8月に病没した。(横山の死後、彼の登用した秋月は左遷された)。 *横山家ご子孫の尚侍さんからお寄せいただいた情報: 「主税常徳には「常晴(長男)」と「常義」という実子が二人おりました。山川家からの養子・源八常道と合わせて三人とも早世してしまいましたので、常道の遺腹の子である(おそらく変換ミスだとは思うのですが、「異腹」ではありません^^;)「常守」が跡目を継ぎました。ですので、常守は山川浩・健次郎兄弟とは実質の従兄弟同志になります。(ちなみに「常守」とは謚で、生前は「常忠」と言いました)」 尚侍さん、貴重な情報をお寄せいただき、さらにUPを快諾していただき、本当にありがとうございます。 *常忠は、常徳の死後家督を継ぎ、慶応2年の幕府の遣欧使節(徳川慶喜名代の弟昭武)に会津藩から命ぜられて随行し、パリ万博にも参加したが、慶応3年7月、帰国命令が出て11月に帰国。会津戦争の白河城攻防戦で、22歳で戦死した。 |
評判 | ・「六十有余の老体にて執権の老職の由。忠実堅固の人物にて持重甚し」by 『再夢記事』 |
詩歌 | ご存知の方、伝言板までご一報いただけるとありがたいです。。 |
略年譜
年 | 歳 | できごと |
寛政10 (1798) |
1 | 誕生(『幕末会津藩』より。『会津人物事典武人編』記載の享年64歳から逆算すると、寛政13年誕生となる) |
安政2 (1843) |
45 | ・江戸詰若年寄に。(『幕末会津藩』より。『会津人物事典武人編』では安政元年、『藩史大事典』では安政3年から江戸詰) |
安政5 (1846) |
49 | ・江戸詰常府家老に。100石加増。 *この頃、江戸の三家老に挙げられる。 |
安政6〜 万延1 |
・安政の大地震。容保登城で留守だったので、横山が指揮。 | |
文久2 (1862) |
65 | 7/27−幕府、京都守護職設置を決定。*容保はこの頃から所労(病気)で登城せず。(『再』)【詳しく】 7/28−松平春嶽、会津藩家老横山常徳を呼び出し、京都守護職就任の内命を伝える。(『七』・『再』)【詳しく】 7/29−容保、春嶽方へ横山常徳を遣わして内命を固辞するが、春嶽は再考を促す(『再』)。【詳しく】 |
8/6 - 越前藩用人中根雪江、春嶽の使者として家老横山常徳宅訪問。(『再』)【詳しく】 8/7 - 春嶽、容保に京都守護職固辞に対して、就任を勧告する書簡を送る。春嶽、会津藩和田倉屋敷を訪ねて、深夜まで病床の容保の守護職就任を説得。容保、国許と相談するため、急使派遣。(『七』・『京』)【詳しく】*『再』では、春嶽は8日に容保を訪問。家老横山常徳・用人堀七太夫も同席。 8/19~20 - 国許から家老田中土佐・西郷頼母が上府【詳しく】。容保、守護職内命を議論させる。容保の意思を聞いた横山常徳は感激して拝命に同意。藩論も拝命に決まる。(『七』・『京』・『再』)【詳しく 】 8/24 - 家老横山常徳、春嶽に面会し、内命を請けることを伝える。請書は用番水野忠精へ提出。(『再』)【詳しく】 |
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閏8/1 - 容保、幕命により登城し、将軍から京都守護職・正四位下に任ぜられる。幕府、役料5万石・金三万両を与える。(『七』・『京』) 閏8/2 - 横山常徳、越前藩邸を訪ね、春嶽に対して、国許から呼寄せる藩兵の準備が整ってから江戸出立の命令が下るよう願い出る。【詳しく】(『続』) |
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12/9−容保に随従して上洛の途に 12/17-田中土佐、横山常徳に書簡(密事往復留『藩・一』p7) 12/23-田中土佐、横山常徳に書簡(『藩・一』p7) 12/24-容保に随従して入京 12/28−横山常徳)・田中土佐、連名して萱野権兵衛らに書簡(『藩・一』p1) |
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文久3 (1863) |
66 | 1/3−横山常徳・田中土佐、連名して萱野らに書簡(『藩・一』p18) 1/8−横山常徳・田中土佐、連名して萱野らに書簡(『藩・一』p59) |
2/4−横山常徳・田中土佐、連名して萱野らに書簡(『藩・一』p161) 2/29−横山常徳・田中土佐、連名して萱野らに書簡(『藩・一』p193、194、207、208、210、216、229、230、235、265、271)/横山主税・田中土佐、連名して西郷文吾に書簡(『藩・一』p270) |
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3/3−横山・田中、連名して西郷文吾に書簡(『藩・一』p265) 3/5−横山・田中、連名して萱野らに書簡(『藩・一』p285、287、289) 3/15-残留浪士24名が会津藩公用方と面談し、公式に会津藩お預かりとなる。この際、横山・田中、浪士に応接。【詳しく】 3/17-容保、横山を二条城に遣り、大目付岡部長常に将軍滞京の意見書を提出。【詳しく】 3/19−容保、東帰再奏請に参内する将軍に慶喜らとともに供奉。横山を老中格小笠原の下に遣わし、将軍東帰反対の上書を渡す(七)。 3/25−横山常徳・田中土佐、連名して萱野らに書簡(『藩・一』p321、335、343、349、353、355、357) 3/31−横山常徳・田中土佐、連名して西郷文吾に書簡(『藩・一』p383) 以下、準備中。また、藩庁記録該当書簡の概容を少しずつUPする予定です。 |
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7/30−天覧馬揃えの陣将として指揮(詳しく) 8月−禁門の政変(8.18の政変) |
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12月−200石加増 | ||
元治1 (1864) |
67 | 2/11-横山、容保の諮問に対し、征長軍副総督と陸軍総裁職就任に反対するが、広沢の拝命主張に同意(詳しく)。 |
4月−将軍家茂より、野村左兵衛・小室金吾・小野権之丞・手代木直右衛門・外島機兵衛とともに召しだされ、これまでの努力を称され、時服を賜る。 | ||
5月−重病のため帰国 | ||
8月−病没 |
<参考>
『会津藩庁記録』、『再夢記事』、『続再夢紀事』、『七年史』、『京都守護職始末』、
『会津人物事典(武士編)』、『幕末会津藩』(歴史春秋社)、
『幕末政治と倒幕運動』