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公用人・野村左兵衛 (のむら・さへえ)

名前 野村左兵衛(諱:直臣) 
誕生 文化12年(1815)年、野村左馬丞(450石)の長男として誕生。のちに加増され550石。
死没 慶応3(1867)年6月22日、京都で病没。享年数え53歳。墓所:黒谷会津墓地
役職 軍事奉行⇒江戸留守居役⇒京都常詰御聞番御内用・軍事奉行兼務⇒京都常詰御聞番御内用・軍事奉行兼務・公用人兼務⇒公用人・京都常詰御聞番御内用兼務
小史 長沼流の軍学家でもあった野村左兵衛は軍事奉行を務め、江戸留守居役の職にあった。文久2年(1862)閏8月、容保が京都守護職を拝命すると、田中土佐(家老)・外島機兵衛らと先発して京都の事情を探索し、尊攘激派公卿の三条実美らと面談し、容保に三港外閉鎖を建議した()。また、三条を通して勅使待遇改正周旋依頼を受け、外島と江戸に戻り、容保に報告した(★)。家近良樹氏の研究(『幕末政治と倒幕運動』)によれば、「公用方を名実共に会津藩の最高の諮問機関・政策立案機関にするべく」、組織作りと人材強化に乗り出した人物であり、秋月悌次郎・広沢安任ら諸生クラスの登用を推進した。同年末、容保に随従して上洛して、外島とともに、公用人小森久太郎を外から支え、翌文久3年(1863)秋には外島とともに公用人に任命された。元治元年には軍事奉行を免ぜられ、公用人が第一の職分となった。各地に探索を送って情報を収集し、征長を主張した。新選組担当だったのか、慶応3年(1867)3月、御陵衛士の分離に際して伊東甲子太郎が野村に面談して了解をとっている。同年6月、会津藩による容保の辞職帰国運動の最中、病没。
評判 ・「長沼流之軍学家ニ而諸藩にも門人多く会藩第一等の人物なる由にて一藩の依頼たり」(「再夢紀事」)
詩歌 「のりならす 駒のひづめの かほるまで 並木の桜 はるの風ふく」

略年譜

文化12
(1815)
誕生
軍事奉行につく。
安政6
(1846)
32 江戸留守居役につく。
文久2
(1862)
48 8/2野村、越前藩中根雪江らを招いて時事を議論。しかし病身であり、腹痛で退座。(『再』)【詳細
閏8/1-容保、幕命により登城し、将軍から京都守護職に任ぜられる。【関連
田中土佐(家老)、野村外島機兵衛、小室金左衛門、川原善左衛門、宗像真太郎、大庭恭平ら、先遣隊として京都に派遣される。柴太一郎の先導で三条実美と面会。京都の情勢を鑑み、三港外閉鎖の建白書を作成。【関連
10/5-三条実美、野村外島に勅使待遇改正周旋依頼の内沙汰。(『家』)【関連
野村、公用方に諸生クラスの登用を提言(『藩』1 p481)
12月野村、容保に随従して上洛(京都常詰御聞番御内用・軍事奉行兼務)
文久3
(1863)
49 2月頃野村の旅宿に公用人・公用局員が日参し、攘夷奉勅問題について評議。奉勅を確認し、容保に建議。(『七』)【関連1】【関連2】
2/26-会津藩、足利将軍木像鳩首事件犯人捕縛。【詳細
4/9−容保、将軍の石清水行幸供奉とりやめの噂をきいて登城し、供奉を懇請。野村を慶勝に遣わし、相談する。(『七』)。【関連
6/26野村、容保の命で足利木像事件犯人保釈について三条実美説得に向う(小野・小室は鷹司関白、大野は徳大寺、広沢安任は豊岡、秋月は長谷へ)
7/16−容保、老中へ将軍上奏書留保の親書を託し、野村を同行させて老中に説明させる。(『七』)【詳細】
8月禁門の政変(8.18の政変)
公用人に。(京都常詰御聞番御内用・軍事奉行兼務・公用人兼務)(『藩』4、p539)
元治1
(1864)
50 3月野村、大坂探索を命じた野村隆之進と唐沢源吾より、庶民は長州の攘夷の姿勢に共感していると報告を受ける(『藩』5 p86)
4月−将軍家茂より、会津藩士横山常徳(主税)野村左兵衛・小室金吾・小野権之丞・手代木外島が召しだされ、これまでの努力を称されて時服を賜る。
5/29-在京の会津藩家老西郷文吾等、在藩同役高橋外記等に、野村左兵衛の萩藩処分に関する幕府入説の結果を報じる。
6/5池田屋事件(1) (2
6/28-因幡藩探索の野村(隆)・唐沢、野村宛報告を記す。(『藩』5 p350)
7/7−因幡藩探索の野村(隆)・唐沢、野村宛報告を記す。(『藩』5 p358)
7/19禁門(蛤御門)の変
8/2野村・広沢安任、老中阿部正外とともに将軍上洛要請を命じられる。(野村らは幕閣には1月以上逢えず)(こちら)
8/4 -野村・広沢安任、老中阿部正外とともに下坂((こちら)
8/6-阿部老中とともに海路着府。
8/28-東下してきた柴秀治、野村「先生」さえ老中に会えないと書簡に認める(こちら)
9/4-野村左兵衛・広沢富次郎・柴秀治、同日付の「内密帖」にて、京都藩邸に開国やむなしの事情・諸侯会議による開鎖の確定の必要性を進言(こちら)
9/9 -野村左兵衛ら、ようやく老中に閲す。征長総督に一橋慶喜を提案し、顰蹙を買う(こちら)
9/13-江戸家老上田一学、野村らの周旋状況を京都に報じる(こちら)
9/23-江戸重臣、会津藩使者が忌避されているため、野村らは、諸藩の「天下の公論」の周旋に任せていること等と京都に報じる(こちら
この頃、野村、後に新選組に加盟し、御陵衛士となる伊東甲子太郎らと面談
10/12-野村、江戸家老に対し、新選組入隊者及び加盟希望者?(伊東ら)を報告(こちら)
11/10-野村、小森久太郎と入れ替わりに帰京のため江戸出立(こちら)
(帰京)
11/24-在府小森久太郎、老中水野忠精・同阿部正外等に、将軍徳川家茂進発の要を建議したことを野村左兵衛等に報ず
この年−野村、軍事奉行を免ぜられ、公用人・京都常詰御聞番御内用兼務に。⇒公用方の権力拡大(『藩』4、p539)
慶応1
(1865)
51 1/29野村、二条関白邸に赴き、慶喜に外藩の召集猶予を願い出ると同時に、将軍上洛を促すための容保東下の計画を告げる。(『越』)
6/3-上田久兵衛(肥後藩留守居)・松浦秀八(桑名藩)・久徳与十郎(久留米藩留守居)らと水明楼で集会。会津からは外島・野村・小野・広沢・柴・大野ら。((上田久兵衛の日記・書状:以下「上」)
慶応2
(1866)
52 7月−公用人野村と小野権之丞が征長不可の薩摩藩建白書を阻止との風説が流れる(『中山忠能履歴資料』)
慶応3
(1867)
53 3/15野村、御陵衛士伊東甲子太郎と新選組分離について会談。
6/22−病没


<参考>『会津藩庁記録』、『再夢紀事・丁卯日記』、『七年史』、『京都守護職始末』、
『幕末維新越前藩公用人日記』、
『幕末会津藩』、『幕末政治と倒幕運動』、『孝明天皇と「一会桑」』


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