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文久2年閏8月1日(1862年9月24日)
【江】守護職就任:松平容保、京都守護職拝命
幕政改革へ:老中板倉勝静、横井小楠に感服し、幕政改革断行を誓う

守護職就任
【江】文久2年閏8月1日(1862年9月24日)、幕府の召命に応じて登城した会津藩主松平容保は、将軍より京都守護職に任じられ、正四位下に叙せられました。幕府は役料として五万石を加増し、三万両を貸し与えました。このとき容保は、28歳でした。

7月28日に守護職の内命が伝えられてから(こちら)約1ヶ月後のことでした。

<ヒロ>
●守護職任命の背景
守護職が容保に任ぜられたのは、京都で伸張していた激派勢力が抑える兵力が期待されたからでした。(→「京都守護職事件簿」:「文久の幕政改革と京都守護職拝命」)

慶喜も「京都の方は昔から所司代で間に合うのだ。けれども所司代は兵力が足らない。ところで浪人だの藩士だのが大勢京都へ集まり、なかにも長州だとか薩州だとか、所司代の力で押えることができない。そこで守護職というものができたんだ。その守護職ができた最初の起りというものは所司代の力が足りぬから兵力を増そう。そこで兵力のある者をあそこへ置こうというのが一番最初の起りだ。それで肥後守が守護職になった」(『昔夢会筆記』)と回想しています。

なお、翌9月、守護職設置に不安感をいだく朝廷に対して、幕府が説明した守護職の設置理由は「御遵奉筋並御警衛向等御十分」にすることでした(こちら

参考:『七年史』一(2002.9.25) 
関連:■「京都守護職事件簿」:「文久の幕政改革と京都守護職拝命」■テーマ別文久2年:「容保の守護職就任」■守護職日誌文久2 

幕政改革へ(春嶽、登城スト中)
【江】文久2年閏8月1日(1862年9月24日)、越前藩政治顧問横井小楠と会見した老中板倉勝静は小楠の説にいたく感服し、「大改革」断行を決意しました。他の者も発奮して、この日から、早速御座の間で大政に関する議論が行われました

【詳しく】
板倉は、大目付岡部長常から聞いた小楠の「方今天下の大勢已に危殆に迫りたれは創業の心得ならては到底挽回しかたしとの高論」に感服したと述べた上で、その「危殆に迫れる実況」について詳しい説明を求めました。小楠の説明に板倉は一々納得したようで、春嶽の持論である幕政改革五事の要旨を説いたときにも一々了解した様子だったようです。(岡部は27日、小楠に国是七条を説かれて感服していました(こちら)

さらに生麦事件処理について話が及び、板倉が<薩摩が下手人を差し出さねばどうすべきだろう>と尋ねたところ、小楠は<何事も条理に基づいて処置すべきであり、利害にのみ着目し、程よいところに落ち着こうとするから、簡単なことも難しくなるのである。幕府は犯人を差し出させるのが条理、薩摩は差し出すのが条理であり、幕府は薩摩に犯人を出さねば得にならないというように仕向けるべきである。そのように仕向けられも出さない場合も条理があるのだから、最初から出さなければどうしようなど案じるのは無益である。また薩摩藩が上洛して姦計を行うのではないかとの御懸念もあるようだが、これも姦計を行ったときはそのときの条理がある。今から懸念するのは無益である>と返答しました。(要するに取り越し苦労はするなということ)。板倉は「只今の高説にて胸懐始めて豁然せり」と大いに喜び、今日の話は一橋慶喜公や他の老中らにも説明してほしいと頼んだそうです。

そして、板倉はいよいよ「創業の心得」で改革を断行するので春嶽に登城して欲しいと要請しました。(小楠は、ここでも登城の件は大目付岡部長常より申し入れるように助言しています)

なお、対談には板倉の用人山田安五郎(方谷)も同席したそうです。

<ヒロ>
春嶽が辞表を提出して登城ストをしているので、小楠がでてきているのだと思います。板倉は幕政改革に消極的ないわば「抵抗勢力」でしたので、以後、「文久2年の幕政改革」は急ピッチで進むことになります)。

参考>『続再夢紀事』一(2003.10.2)
関連:■開国開城「勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革」」■テーマ別文久2年:「幕政改革問題」「国是決定:開国VS破約攘夷」「横井小楠」■越前藩日誌文久2 

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