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公用方・秋月悌次郎 (あきづきていじろう)

名前 秋月悌次郎(諱:胤永 かずひさ)
誕生 文政7(1824)年、会津藩士丸山四郎衛門(100石)次男
死没 明治33(1900)年、東京で病没。享年数え77歳。
小史 秋月悌次郎は諸生の出ながらその能力ゆえに、選ばれて江戸に遊学し、その後は藩命により西国を遊歴するなど諸藩の事情に詳しく交際範囲も広い特異な会津藩士であった(薩摩藩士ほか、河合継之助、久坂玄瑞とも面識あり)。藩主容保の京都守護職拝命時には家老横山主税に公用方として抜擢され、容保に随従して上京た。ことに文久3年(1863)の禁門の政変時の会薩連合は、薩摩藩士高崎左太郎が秋月を訪ねてきたことが契機となり、高崎とともに政変の実行に奔走した。しかし、敵も多かったようで、翌元治元年(1864)の禁門の変後、秋月を登用した横山が死去すると、蝦夷地代官に左遷された。慶応3年(1868)に、会薩の改善修復のため、急命で京都に呼び戻されたが時すでに遅かった。
 *鳥羽伏見戦争後については年譜をご参照ください
評判 ・「秋月、薩摩其の外、諸藩の事を記する事多し」by 河井継之助
・「悌次郎義以前諸国遊歴致候節之因ミも有之、広周旋罷有、時勢之事情掌握致居候」by 『会津藩庁記録』
・「悌次郎義ハ公卿方ヲ始一橋様其余公儀御役人之内懇意モ有之、専ら周旋方ニ御調法致候」by 『会津藩庁記録』
・「忌ム者往々有リと雖、之を棄ツル能ハ」ざる「逸物」by 『会津藩庁記録』
・「神のような人」by 小泉八雲
詩歌 蝦夷左遷時に詠んだ漢詩
「京洛このときまさに謀を献ずべきに謫居【たくきょ】病に臥す北蝦州
死して骨を埋むまた悪しきにあらず唐太以南みな帝州」

略年譜

できごと
文政7
(1824)
誕生
天保13
(1842)
19 ・数え19歳で選ばれて江戸に遊学。
弘化3
(1846)
23 ・昌平坂学問所に入り、のち舎長となる
・帰藩後、日新館儒者になる
安政6〜
万延1
/ ・藩命で西国諸藩を遊歴する(長州にも立ち寄り、奥平謙輔の知遇を得る)
・桜田門外の変処理で外島機兵衛の福使として活躍
文久2
(1862)
39 ・家老横山主税(常徳)に抜擢され、のち京都守護職公用方に登用される
7/26-秋月、越前藩中根雪江を訪問。秋月は、藩主松平容保も幕議に参与として参加するので、家臣も交誼を結んで懇意にしたいと申し出、越前藩と会津藩は会盟(盟約を結ぶ儀式)開催について相談。(『再』)【詳しく
12/24−藩主松平容保に随従して入京?同日、老中格小笠原長行、海路着坂。容保、松坂三内・柴太一郎・秋月悌次郎・広沢安任(広沢富次郎)に小笠原の摂海巡視に随行させる。(「鞅掌録」『藩』三)
12/29秋月・広沢、小笠原に初めて謁す。
文久3
(1863)
40 1/7-会津藩、京都に公用方を設置。秋月・広沢・大野英馬・河原善左衛門・柴太一郎・松坂三内は取調担当。
4/11-石清水行幸。秋月、広沢とともに兵を率いて祐宮(のちの明治天皇)警護 【詳しく
4/25-秋月、幕府御側御用取次村松出羽守に将軍滞京を主張。(七)【詳しく】
6/3-容保、公用局の小野権之丞、外島機兵衛、秋月、広沢らを淀に送って老中格小笠原長行入京の不可を説かせる。(七)【詳しく】
6/26−容保、東下問題で、家臣に公卿を説得させる(野村左兵衛を三条実美、小野・小室を鷹司関白、大野英馬を徳大寺、広沢を豊岡、秋月を長谷に派遣)
8/13-攘夷親征(大和行幸)の詔。薩摩藩の高崎佐太郎が、秋月、広沢、大野、柴秀治らを訪問し、連合して政変を起し、行幸(攘夷親征)を止めることを持ちかける。容保は計画に同意。高崎・秋月らは公武合体派で孝明天皇の信頼も篤い中川宮の協力をとりつける。会薩−中川宮連合の発足。(七)【詳しく】
8/16-中川宮は参内して、孝明天皇に勅を矯める「奸臣」の処分を請う、天皇は理解を示したが、朝廷内に天皇の命令を言葉通り伝える者はおらず詮が無いとして(あるいは時機尚早であるとして)、激派公卿処分の内勅は下さず。大野・秋月・松坂・柴・広沢ら、薩藩高崎とともに御所唐門前の会津藩番所で首尾を待つ。中川宮の退邸後、秋月・広沢・高崎、中川宮の屋敷へ。失敗を知る。朝廷内に協力者を求めて、高崎らは近衛前関白父子に、秋月・大野は二条斉敬右大臣説得に向かい、協力を得ることに成功。夕方、孝明天皇、中川宮に会津・因幡に処理させよとの密旨【詳しく】
8/17−深夜の政変決行を決定(この日に二条・近衛らを説得との説もあり)【詳しく】
8/18−禁門の政変【詳しく】【関連「開国開城:大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変
11/16-越藩中根雪江ら、秋月を訪問し、政変顛末を聞く【詳しく】
11/28-一橋慶喜・松平春嶽・伊達宗城、長州藩家老井原主計の嘆願のための入京を議す。謁見を請うた秋月、入京に強く反対。一同、秋月の言を容れて入京不可を決める【詳しく】
11/29 -【京】春嶽、会津藩に井原の応接負担を提案。秋月、会藩と長藩は仇敵のような状況であると、これを断る【詳しく】
12月−将軍出向かえに下坂の新選組を指揮
元治1
(1864)
41 3月-会津付札に秋月・広沢等は「内外重大之御用向相荷抜群ニ有之」と記される(『藩』四)
7月禁門の変
8月−秋月を登用した家老横山主税の死
慶応元
(1865)
42 ・会津藩蝦夷領代官に左遷される
慶応3
(1867)
44 3月−京都に呼び戻される。
・会薩間の関係修繕に奔走するが時すでに遅かった
10月−大政奉還
12月−王政復古
慶応4/
明治1
(1868)
45 1月鳥羽伏見の戦い
8月−副軍事奉行として会津篭城戦を指揮
・米沢藩を通じて板垣退助と開城交渉
9月−会津城落城
・猪苗代に監禁される
・会津藩処分寛大陳情のために猪苗代を抜け出して北越まで行き、長州奥平謙輔・前原一誠に陳情
12月−東京伝馬町に移獄
明治2
(1869)
46 ・会津戦争責任者として終身禁固に処せられる
明治5
(1872)
49 ・特赦される
その後 / ・太政官出仕、東京大学等の教授などを歴任(熊本で小泉八雲と同僚になる)
明治33年1月、従5位。その5日後、東京にて病没。

主な参考文献
『会津藩庁記録』、『七年史』、『京都守護職始末』、『会津人物事典(武士編)』
『再夢紀事』、『続再夢紀事』、『鹿児島県史料』
『幕末会津藩』、『幕末政治と倒幕運動』、


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