[AM10:00 若駒寮・キッチン]
「すみません、朝ごはんください」
「はいよ」
食堂のおばさんにお願いし、私はキッチンで待っていた。頭の中は、さっきの片山くんと長瀬くんの話で一杯だった。
いつも苦手にされている篠崎くんなのに、あえて彼のために誕生日パーティーを企画してくれた片山くん。そして、そのためだけに北海道から帰ってきてくれた長瀬くん。私も含めて、みんなが篠崎くんを好きなのだ。それを思うと、本当に嬉しい。
ただ……。
実は、私には篠崎くんに対する負い目がある。そのきっかけはもう3年も前のことなのだが、これでもういい……と割り切ることのできない過去で、いまだに思い出すと苦しくなる。だから、私が彼にいろいろなことをするのが、好意からなのか、それともその負い目を埋めるためなのか、時々自分でもわからなくなるのだ……。
などと考えていたそのとき、突然ポケットの中で、お気に入りの着メロが鳴り出した。
携帯を出して着信の表示を見ると「五十嵐先生」とある。私のお師匠様の調教師、五十嵐雅生先生の携帯からだ。
「はい、桂木です」
私はすぐに出た。
『ああ、五十嵐だ。……大した用事じゃなくて悪いんだが、今日の昼飯当番はお前だったな』
「そうですが?」
五十嵐厩舎では、家庭的な雰囲気を保とうという五十嵐先生の考えで、競馬開催日以外の昼食は厩舎スタッフが当番制で作っている。それで、今日は私の番なのだ。
『実は、冷蔵庫の中身がほとんどないんだ』
「あ、わかりました。それじゃ、厩舎へ向かう前にスーパーへ行ってきます。お昼の材料と……あと、そんなに何もないなら、野菜にハムに卵、ビールなんかも買ってった方がいいですよね」
私は考えながら言った。
『頼むよ。……いや、お前は本当に気配りのできるいい子だな。今はもうこんな表現する時代じゃないかもしれんが、さすがは女と言いたくなる』
「ありがとうございます」
それをほめ言葉と解釈して、私は笑った。自他ともに認める世話好き人間なので、「気配り」をほめられるのが一番嬉しいのだ。
『じゃあ、それだけだ。慌てなくていいからな』
そして五十嵐先生は電話を切った。私は携帯をしまった。
「はい、準備できてるよ」
すると、食堂のおばさんがすでにお盆を持って待っていた。
「あ、どうもすみません。お待たせしちゃって」
私は頭を下げながらそれを受け取った。
「……しかしあんた、ちょっと話聞かせてもらったけど、細かいところまでよく気がつく子だねえ」
おばさんは五十嵐先生と同じことを言った。年が近いと着眼点も似てるのかな。
「ありがとうございます」
「しかも素直だね。いいお嫁さんになれるよ」
「そ……そうですか?」
つい誰かさんの顔が浮かんでしまい、顔がちょっとだけ熱くなった。
「そうそう。女の子なんだから、騎手なんてさっさとやめて、いい人探してお嫁に行きな」
……さすがにそれにはうなずけない。私は言った。
「でも私、50までこの仕事続けるのが夢なんです。結婚はしてもやめません。……じゃ、失礼しますね」
慌てなくていいって五十嵐先生は言ったけど、やっぱり早いに越したことはない。私は食堂に戻ろうとキッチンを出た。