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[AM9:30 東屋雄一厩舎・大仲部屋]

「すみませーん! 失礼しまーす!」
よく通る大声とともに、美浦トレーニングセンター内、東屋雄一厩舎の入口の引き戸が、勢いよく引き開けられた。……後悔の色の記憶にとらわれていたぼくを含め、大仲部屋にいた全員が、何事かと視線を一点に集める。
失礼します、と言いながら本当に失礼だと思われる行動に出ているその人は、騎手としてのぼくの同期仲間、桂木真理子さんだった。その姿を見るたびに、そして言葉を交わすたびに、ぼくに「世の中には『正反対』というものが確実に存在するのだ」と確信させてくれる、ある意味でとても疲れる人だ。彼女が動なら、ぼくは静。彼女が光なら、ぼくは闇。彼女が炎なら、ぼくは氷。そんな感じだろうか。
「おお、これはようこそ。……おい剛士、桂木さんだ」
ぼくの師匠であり、この厩舎の長でもある東屋雄一先生が桂木さんのもとへ駆け寄り、彼女にあいさつをしてからぼくを振り返った。
彼女がぼく関係以外でここに来ることはほとんどないから、東屋先生がぼくを呼んだのは正解だ。
ぼくも彼女のもとへ歩いていった。
彼女は何やら、棒のようなものを持っていた。両側で太さが違う……ちょうど、野球のバットのような大きさと形の物体だ。ただ、かわいらしい包装紙とリボンでラッピングされていて、とてもそれそのものには見えない。
「ハッピー・バースデイ! はいプレゼント!」
桂木さんはぼくが目の前に立つやいなや、その持ち前の笑顔を輝かせて、持っていた謎の物体を差し出した。
……今日は8月31日、月曜日。ぼくの19歳の誕生日だ。
今朝から厩舎スタッフみんなに「おめでとう」と言われたり、プレゼントをもらったりした。関係者以外では、北海道に遠征中だった(昨日、突然帰ってきたと聞いた)同期の長瀬健一が向こうからクール宅配便でカニとホタテを送ってきたが、どうも感動は薄かった。それは、ぼくが漁師町の出身だからなんだろうか。……いや、それだけではあるまい。
ぼくは、桂木さんからその謎の棒を受け取った。……感触はまさしくバット。しかし、このラッピング……。
「これは……野球のバット?」
「大正解!」
まさかと思って聞いたぼくに、彼女は実にあっさりそう答えた。贈った相手のぼくが感じるよりも気に入ってるのか、いたずらした子供の頭を小突くように、バットの先端部分をポンポンとやる。
「……ありがとう」
ぼくはそれだけ言った。顔が笑顔にならないのは自分でもわかっている。
「いいえ、どういたしまして。……あ、じゃあ私、そろそろ失礼するね」
「なんだ、もう行っちゃうのか。もっとゆっくりしていけばいいのに。剛士が人間らしい目で見る相手なんて君だけなんだから」
ぼくの隣で、東屋先生が余計なことを言う。
「そうなの?」
「あ、いや……」
「まあ、いいわ。じゃあね。……東屋先生、どうもお騒がせしました」
最後に軽く頭を下げて、桂木さんは帰っていった。

 

 

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