[PM0:30 東屋雄一厩舎・大仲部屋]
……3年前の7月。
競馬学校の1年生だった同期8人……ぼくと桂木さんと長瀬と片山、あとは関西のトレセン所属になった4人……は、サマーキャンプで、福島県東部の海岸へ行った。
当時のぼくは、入学から3ヶ月が経っていたにも関わらず、みんなになじめずにいた。元来の人づきあいの苦手さに加え、周囲のレベルの高さに辟易し、自信をなくし、気がつけば自ら仲間たちから離れていたのだ。
……あの日も、そうだった。海ではしゃいだり砂浜でビーチボール遊びをするみんなに入っていけなくて、ぼくはひとりで、少し離れた岩場で海を眺めていた。
そんな孤独なぼくのもとにひとりでやってきたのが、桂木さんだった。
彼女は、ぼくをみんなの中に引き込もうとして誘いに来たのだった。
それでも怖さに負けてためらってしまったぼくに、彼女はいろいろと優しい言葉をかけてくれた。
そして、まずはふたりだけで遊ぼうということになり、ぼくたちはそこの海……実は水深が5メートルほどもあって遊泳禁止だったのだが……に潜ったり水をかけ合ったりしてはしゃいだ。
楽しかった。このときが、競馬学校に入学してよかったと思った最初の瞬間だったように記憶している。
……やがて岩場に上がり、桂木さんは、一緒にみんなのところへ戻ろうと誘ってきた。
ぼくは、まだそれには応えられなかった。この時点ですでに、あの片山を初めとする連中の冷やかし攻撃があった。ぼくはどうでもいいけど、桂木さんがそれの的にされるのは絶対にいやだったのだ。
それを話すと、彼女は先に砂浜へ戻っていった。時間を空けて、ぼくも戻るつもりだった。
……そのとき、ぼくのすぐ横の岩の上に、ひとつのブローチがあるのに気付いた。
それは桂木さんの物だった。どうやら、海に入る前に水着の上に着ていたシャツを脱いで岩場に置いたとき、胸についていたそれが岩に当たって、衝撃で外れたらしい。そして彼女は、気付かずに向こうに戻ってしまったのだ。
アクセサリーの価値なんかまったくわからないぼくの目にも、それはとても綺麗なブローチだった。色とりどりの小さな宝石が、天の川のようにたくさん散りばめられていた。後で知ったところだと、それは彼女がお姉さんからプレゼントされた物で、時価20万円相当だったらしい……。
ぼくは当然、それを彼女に返そうと思って、外れたままになっていた留め金を元に戻した。
ところが……。
ずっと座ったままだったのがいけなかったのか、いきなり立ち上がったぼくは目まいを起こしてその場に倒れ、こともあろうに、そのブローチを深い海に落としてしまったのだ。
ぼくは焦った。何が何でも拾わなくてはならない……その思いに突き動かされて、海に飛び込んだ。
潜って探し、息が続かなくなったら浮上して、また潜る……そんなことを、何回繰り返しただろう。やがて、ようやく海底の砂の間に、そのブローチを見つけた。
しかし、すんでのところでつかみ損ねた。
息は限界まで来ていたが、ここで息つぎのために浮上したら、次に潜ったときまた見つけられるという保証はない。ぼくは自分の体を無視して……半分くらいは「素潜りが得意」というプライドも手伝ってか、そのままブローチをつかむことに専念した。
そして、ようやくそれはぼくの右手に収まった。
……だが。
ここで、ぼくの意識は途切れる。
残ったものは、ただ……遥かなる、海の色の記憶だけ。
……目を覚ましたときは、その日から3日が経っていた。
同期は全員、病院に来てくれていた。みんなぼくを心配して、もうサマーキャンプどころではなかったらしい。片山などは、わけもわからずぼくに泣きついてきたりもした。
話を聞くと、ぼくを見つけて潜って引き上げてくれたのは、桂木さんだったそうだ。
でも……。
ぼくの手の中に、あのブローチはなかったという。
そう。ぼくは、桂木さんが大切にしていたあのブローチを、海から持ち帰れなかったのだ……。
……あれからぼくは何度も桂木さんに謝り、彼女はそのたびに「いいのよ」と笑った。
だけど……謝ってすむことじゃない。それはぼくが一番わかっている。
だからぼくは、あの日から、彼女の顔をまっすぐ見られなくなってしまった。
消せない後悔にとらわれ、いつも漠然とした不安に駆られ、もともと少なかった自信がさらに薄れ……やがて今年の3月、騎手としてデビューする日を迎えた。迎えてしまった、と言うべきか。
そして、現在に至る……。
「……剛士?」
……気がつくと、東屋先生が帰ってきていた。
「あ、先生……」
「こんなところで何をしている。出かけてこいと言っただろう」
「いえ……遊びに行く約束は取りつけてあります。今は、厩舎に誰もいないので留守番をしていたんです」
「ああ、そうだったのか。それは悪かった。さあ、私はもう出かけないから、行ってきたまえ」
「はい……」
……そしてぼくは、ひとりで厩舎を出た。
今ほど、孤独な自分を強く感じたことはなかった……。