HOME研究ノート

人物誌 ―伝承に関わった人々―

平家詞曲の伝承に深く関わった人びとを紹介します。
いずれ、生没年・出身・業績などのデータを掲載します。お待ち下さい。
2004年11月28日、19名(名前と身分)追加しました。
2005年4月21日、9名分の備考を追加しました。
2005年5月11日、8名分の備考を追加しました。
2005年2月15日、26名分の師匠を追加し、系図ページを作りました。
2009年5月3日、人物一人と、7名分の備考とを追加しました。

 検校(当道座に所属する盲人の最高位)師匠備考
明石覚一検校初代総検校 坂東如一覚一本を確立
波多野孝一検校江戸一世宗匠〜1651長原検校?波多野流始祖
前田九一検校江戸二世宗匠〜1685高山丹一前田流始祖
杉山和一検校惣録屋敷1610〜1694 元禄5(1692)惣録検校となる
豊田雅一検校江戸三世宗匠1669?〜1745山下久一正徳2(1712)家宣の法華頓写
亀田意一検校江戸四世宗匠 豊田雅一1780年代に活躍か
豊川  検校江戸五世宗匠 雨宮菅一?麻岡検校の最初の師
荻野知一検校平家正節編纂1732〜1801寺尾勾当、河瀬意一1776年尾張藩にて正節編纂
麻岡長歳一検校江戸六世宗匠〜1858豊川検校ほか齊興が出資、京都で正節修得
福住順賀一検校江戸七世宗匠〜1886麻岡長歳一筒井政憲次男(長男説あり)
鏡島城千検校江戸八世宗匠 麻岡長歳一 
伊豆島宗昌検校江戸九世宗匠〜1899  
 晴眼者(眼の見える人)師匠備考
山田宗へん茶人1627〜1708 平家琵琶数十面を製作
岡村玄川平家吟譜編纂1691?〜1772?豊田雅一1737年豊田検校と吟譜編纂
堀 景山儒学者1688〜1757 京都で平曲を学ぶ
本居宣長医者・国学者1730〜1801 京都で平曲を学ぶ
頼 山陽史学者1780〜1832 文政13年「平安人物志」
西尾芳瑞文人?  文政13年「平安人物志」
三島自寛和学者・歌人1745〜1812亀田意一、岡村玄川 
川村良碩紀伊藩侍医1744〜1819三島自寛津川検校長男、川村検校養子
楠美荘司(則徳)*弘前藩士〜1819三島自寛、川村良碩寛政4(1792)文化10(1813)
文政2(1819)江戸で平曲習得
工藤繁治 *弘前藩校の書学士 楠美荘司 
島津齊興薩摩藩主 麻岡長歳一江戸の平曲伝承を救済
青山弥惣右衛門幕臣、御臺所組頭 麻岡長歳一プチャーチンと下田で交渉
大木弁庵松平主殿頭奥医者 麻岡長歳一 
中山眞齊町方与力の隠居 麻岡長歳一 
那須資禮旗本1810?〜麻岡長歳一 
津軽順承弘前藩主1800〜1865麻岡長歳一 
楠美太素 *弘前藩士1818?〜1882麻岡長歳一荘司(則徳)の孫
楠美晩翠 *弘前藩士1837?〜1887楠美太素太素長男
楠美恩三郎 *東京音楽学校教授1868〜 晩翠三男
館山漸之進 *平家音楽史編纂1842〜楠美太素太素三男
館山甲午 *無形文化財1894〜1989館山漸之進漸之進四男
館山宣昭 *  館山甲午甲午次男

Copyright:madoka 初版:2000年5月19日、2006年9月12日楠美家系図へリンク追加
堀 景山、本居 宣長
本居宣長記念館 に載っていた興味深い記事を要約します。

堀景山は、芸州浅野家儒官の家の出身で、
本人は京都に住み、日本の古典や平曲に造詣が深かった。

本居宣長は『在京日記』に、宝暦6(1756)年1月9日、
友人宅で堀景山の平曲を聴くことになり、宣長自身もその場で
「かたはしならひ侍るが、いとむつかしき物也。
中音をすこしならひ侍る、になうおもしろき物也、琵琶のねはさら也
(習ってみたが難しい。中音は比較する物がないほど面白い)」
と記している。


興味深いのは居合わせた面々です。
堀景山、横関斎、山田孟明、そして本居宣長。
宣長をとりまく晴眼者(眼の見える人)ばかりです。

私の先祖は参勤交代の折に江戸で平曲を修得しましたので、
江戸での晴眼者については記録があるのですが、
京都や尾張、他の藩での事情まではわかりません。

京都においても儒学者や国学者たちが平曲を学んでいたと
知ることができるこの情報は、大変貴重といえます。

Copyright:本居宣長記念館/madoka 初版:2004年9月27日
岡村玄川
山田宗へん ―宗へん流の道統―』昭和55年3月20日、
財団法人茶道宗へん流不審庵編著(制作者:主婦の友社)
p.153 流祖山田宗へん 門人譜より
岡村宗伯 名は重勝、通称は新右衛門、別に時習軒、雨雪庵の号がある。江戸の人、岡村休意の男で、三十間堀に住み、材木問屋を家業とした。茶法をよくしてその蘊奥を究めた。また和歌をよくし、兼ねて蹴鞠の技をその父より受けて、名声特に著われた。享保十九年二月二十七日歿した。年六十二。墓は江戸芝増上寺内の清光寺にある。
岡村玄川 別に畏川(玄畏とも)、霊静堂の号がある。江戸の人で岡村宗伯の異母弟である。長じて医術を久昌院那須玄竹に学び、医を業とした。性茶儀を好み、また琵琶を嗜んで当時の名手と称された。晩年目黒に退居して専ら茶事を楽しむ。門下で業を受ける者がすこぶる多かった。延享五年六月二十七日歿した。芝増上寺内の清光寺に葬る。

『平家音楽史』では玄川を「嘘静居士」としていますが、
門人譜を考えると、「嘘」ではなく「霊」だったのでしょう。
初版:2009年5月3日

研究ノート 内容の転載・引用を希望の方は 必ずご一報下さい。