声がした。意識の外で、体が反応する。俯いていた顔が、上がる。
若い二人の兵士の姿。共に驚愕の表情を浮かべている。うち一人は、蒼き鎧を纏った騎士。その騎士が、声を出す。
「何が、何があったのですか?」
それは夢の中で聞く音のように、ロンバードの意識の表面を撫でた。ほんの少し、思考が戻る。声をかけた騎士に、見覚えがある事に気付く。
「閣下、何があったのです?」
悲痛な響きが込められた問いに、答えようと口を開ける。だが、言葉が出ない。この状況を的確に、一言で説明するような言葉が、思いつかない。
「ロンバード殿が……ロンバード殿が、ご乱心……?」
か細い声でそう呟き、後退りしたもう一人の兵士にも、ロンバードは沈黙し続けた。
「まっ、待て!」
逃げるようにその場を走り去った兵士に、蒼き鎧の騎士はそう叫ぶと、再びロンバードの方へ向き直った。
「閣下」
側に歩み寄る。
「閣下!」
ロンバードの正面に屈みこむ。
「話して下さい。何があったのです?」
暗く虚ろな灰色の目に、真摯な空色の瞳が飛び込んできた。
「ヘルム……殿。貴殿は……私を……」
「話して下さい」
切実なフレディックの声に促され、ようやくロンバードは一つの言葉を導き出す。
「……ガーダが……」
「ガーダ?」
「その壁を……」
「壁――」
その時初めて、フレディックは知った。ディルフェルの壁が、忽然と消えていることを。
「ガーダが……ここを?」
呻くようにフレディックが言う。
「では、ティアモス将軍も、ガーダが?」
ロンバードは頷き、血塗られた剣を支えにしながら立ち上がった。まだ少しふらつく足で、亡骸となったティアモスの側まで歩む。跪き、見開かれたままの目を閉じ、自分も目を瞑る。沈黙の時が、しばし流れる。やがてロンバードは肩で大きく息をつくと、床に転がっていたランプを手に取り、リルの台座に向かった。
足元に散らばるのは、まだ瑞々しい色艶を残すフランフォスの花。立ち昇る甘い香りが、つい先ほどまで命を宿していたことを如実に語っている。一滴の光も零れ落ちぬこの地下で、咲き誇っていたことを。
ロンバードの顔の険しさが募る。厳しい目で花を見つめ、さらに台座の上へと視線を移す。翳された明りが、そこに残されていたものをくっきりと浮かび上がらせる。
ロンバードは愕然とした。それは、土くれなどではなかった。形あるもの、しかも、人の形。大人ではない。すっかり干からびていることを差し引いても、その小ささは、間違いなくこの遺体が子供であることを示していた。背筋に寒いものが走る。
これが遺体なら、あれは、一体?
ランプの火が揺らめき、細く伸びる。残り少ない油の全てを燃やし尽くすと、一際明るく輝いて消えた。闇を全身に感じる。何も見えない。進むべき道が分からない。どこへ行こうと、この闇から逃れられないのではないか。
「閣下」
ロンバードの目に、再びリルの台座が浮かび上がる。背後から投げ掛けられた灯りが、わずかながらそこに光を与えている。それは、フレディックが手に持っていたランプの灯火であった。若き騎士の持つ、灯火……。
沈んだ灰色の目に、光が戻る。ロンバードは誰にともなく一つ頷くと、小さく、だがきっぱりとした声で言った。
「行かねばならない」
「行くとは……どこへ?」
その声に、はっきりと不安の色を残したまま、フレディックが尋ねた。
「陛下の元へ。今、すぐに」
「直接、このまま行かれるのですか?」
フレディックの声が、心配そうに震える。
「ですがこの状況は、このままでは……。やはり一度砦に戻り、御自ら事の次第をご説明して頂かなければ。おそらく砦では、先ほどの兵士が間違った報告をしているでしょう。このまま立ち去られては、あらぬ誤解が為されたままになってしまいます」
心の芯からの説得に、ロンバードの口元が微かにほころんだ。
「このような状況にも関わらず、私の言葉を信じる者が、貴殿の他に何人いようか」
「キーナスにおいて、閣下を信じられぬ者がありましょうか?」
「では、貴殿は陛下を信じておらぬのか?」
想像の範囲を超えた問いに、フレディックは混乱した。
「……閣……下?」
「ティアモス将軍がこの場におわしたのは、陛下の命である」
ロンバードの声から一切の柔らかさが消える。
「ディルフェルの壁の前に行けと。そして事を為せと」
言葉の全てが、鋭い針の先であるがごとく聞く者を刺す。
「もとより、我らがこの地に赴いたのは、誰の命か」
フレディックは、しばらくの間、口がきけなかった。全身の血が、音を立てながら引くのを感じる。体の中から冷気を覚え、小さく震える。
「……では」
すっかり乾いた唇から、細い声を出す。
「では、何もかも陛下が……。しかし、まさか、ガーダは……」
「ガーダのことは、私にも分からない」
関係があるのか、ないのか――という言葉を、ロンバードは口にしなかった。さすがにそこまではという思いが、そうさせた。
「だが、ディルフェルの壁について、何もご存知なかったとは考えられぬ。その事を戻っ――」
ロンバードは、そこで言葉を切った。フレディックの手にあったランプの灯りを消す。暗闇の中、耳に確かな音が聞こえる。何人かの足音。と、それに連動して揺れる灯りが、部屋の入り口から見える通路を仄かに照らす。
「私は行く」
決然と、吐息だけに言葉を乗せ、ロンバードは言った。
「ここで時間を浪費するわけには行かぬ」
その言葉が終わらぬうちに、ロンバードは部屋を飛び出した。部屋の入り口から垣間見えた灯りが、激しく暴れる。鋭い金属音。そして、静寂。
我に返って、フレディックは駆けた。部屋を出る。そこに――。