目の前の、空気が切り裂かれた。いや、射抜かれた。鈍い音を立てて、一本の矢が西の壁に突き刺さる。窓から伸びたロープがぴんと張り、部屋を真っ二つに割っている。
「もうそこまでだ。いくら何でもこれ以上は許さぬぞ!」
そう叫びながら、シオは矢の元に駆け寄った。その矢に括り付けられた、小さな袋のようなものをほどく。
「これくらいで、済むとは思わないで下さい!」
自らの足音をその大声で消しながら、ミクがシオの側に走り寄る。
「やっと調子が出てきたな。最初っから、それをやって欲しかった」
囁くシオに、ミクも小声で切り返す。
「ちゃんと説明して下さらないのが悪いのです」
「では、もう大丈夫だな。引き続き、よろしく」
袋から取り出した二本の棒を手にして、シオは言った。その言葉に応じる。
「私は――」
腹の底から声を出す。
「それほど私は、怒っているのです!」
「もういい。そなたがそこまで強情を張るなら、こちらにも考えがあるぞ」
「考え? 考えとは?」
「力ずくでということだ」
「まあ、何と横暴な。あなたがそのような人だったとは」
「じゃじゃ馬相手では、それも致し方なかろう」
「じゃじゃ馬ですって? あんまりだわ!」
互いに隙間なく声を並べている間に、二人は速やかに作業を続けた。ロープに全体重を掛け、その強度を確認する。そしてそこに、二本の棒を宛がう。棒の中央部分には窪みが付けられ、滑りやすいようにその部分だけ丹念に磨かれていた。逆に棒の両サイドは古布が巻かれ、握った時に滑り難いようになっている。手を通すための小さなロープの輪も付けられており、万全ではないが最善の工夫が施されていた。もしもこの場に、か弱いタイプの女性がいたとしても、これならなんとか自力で脱出できるだろう。
窓辺に向かう。両手をその輪に通す。念のため、軽く左肘を曲げ、伸ばす。痛めた部分に問題はない。そのミクに、シオが耳打ちをする。
「そろそろ展開を変えよう。ちょっと、泣いてくれ」
「……泣――く?」
ミクにとって、それは怒るよりもさらに困難を極める感情表現だった。凄まじい勢いで自分の経験を遡ってみる。が、参考になるような良い例がない。仕方なく、見聞きした他人の姿をイメージして、挑む。
「私はあなたのことを――うう、うっ――心配して、うっ……それなのに」
「……はぁ」
シオのあからさまな溜息を聞くまでもなく、ミクは失敗を自覚した。なんだか腹でも痛くして、唸っているようにしか聞こえない。ミクは嗚咽を諦め、すすり泣きに作戦を変えた。
「そんな私の気持ちも知らないで――ぐすっ。勝手なことばかり――ぐすっ」
泣いているのか、それとも風邪でもひいたのか。微妙な所だが、さっきよりはましだとミクは判断した。なおも続ける。
「結婚したばかりだというのに、こんな所に来て。ぐすっ――ここで私は、たった一人で――」
「私とて、気持ちは同じだ」
甘やかな、それでいて真摯な声がミクの右頬で弾けた。
「一瞬たりとも、そなたの側を離れたくない。そなたには分かっているはずだ。そなたなしでは、私が生きていけぬことを。ただそなたを愛するためだけに、私の命があることを」
見事な演技力。
ミクは心の中で舌を巻いた。演技というよりは、人格がまるごと変わったかのようだ。これを芝居と見破る者など、そうそういないだろう。いや、例えそうだと分かっていても、ほだされてしまう者も多いのではないか。この種の語らいをむず痒く感じる、自分のような性質の女以外は、みな……。
「ほら、続けて」
囁くシオの声に冷然さが戻る。淡々と、ミクに指示を出す。
「話をちゃんと合わせてくれ。できるだけ、色っぽく」
色っ――ぽく――?