「さっさと向こうに行けよ!」
威嚇するつもりなのか、男は前の座席を強く蹴飛ばした。
「聞こえねえのか? 消えろっつーてんだよ!」
次の瞬間、モイラは左手を腰に、もう一方の手を背もたれの上部に置いた。男の頭を抱きかかえるようにして、体を屈める。
「わたし、警察のほうに、何人かお友達がいるんだけど」
モイラの黒髪が、男の左頬をかすめる。
「バラしちゃってもいいのかなあ。偽造パスポートのこと。あ、それより、あなた達の荷物、調べてもらった方がいいかもね。高い船賃かけてデロス星まで運ぶものって……興味あるわ」
男は、沈黙した。
モイラは満足げな微笑を浮かべて姿勢を正すと、再びモーガン夫人に言った。
「アイラ・モーガンさん。私達と一緒に船を降りて下さい」
モイラの言葉に、彼女は再び小さく頷いた。
彼女はモイラ達に拒否はおろか、なんの疑問すら持たなかった。それがデロスの人間の特徴であると言ってしまえばそれまでだが、見ず知らずの者に対して、あまりにも無防備で従順すぎる。そう、ロイは思わずにはいられなかった。たとえ、その性質のお蔭で、こうやって彼女を連れ出すことができるのだとしても。
「さあ」
モイラに促され、アイラ・モーガンはゆっくりと席を立った。すらりとした長身。夫人の瞳が、モイラの背後にあったロイを捉える。
ロイは、その視線に対し、あまり深く考えずにある反応をした。右腕に抱えていたリリア、モイラに隠れてアイラからは見えなかったであろうリリアを、左腕に抱え直したのだ。リリアの視線とアイラの視線が、この時初めて交わった。
モイラは外に出ようとして身を翻した。そして、じっと一点を見つめるリリアに優しく微笑む。その笑みを、ロイに滑らせると、モイラは不思議そうに首を傾げた。
「ロイ?」
ロイは口をわずかに開けたまま、顔を強張らせていた。明るい空色の瞳が、大きく見開かれている。何か信じられないものを見ている、そんな表情だ。
モイラは、ゆっくりと後ろを振り返った。その瞬間、モイラの目と耳に、すぐには理解しがたい情報が叩きつけられた。
「ウアァァー!」
鼓膜を突き刺すような鋭い悲鳴。眉をひそめ、苦渋に歪められた顔。
それら全ては、アイラ・モーガンのものであった。
「ウアアアァ!」
アイラは両手を自分の頬にあてがった。白い指先で髪を掻きむしる。唇を震わせ、それに合わせるように、細い肩を小刻みに揺らす。
彼女は錯乱していた。ありえないことだが、間違いなく混乱状態のアイラを前にして、モイラ達は一歩も動けずにいた。
どうしたんだ?
何があったの?
声にならないざわめきが、乗客達の間から波立つ。
「ウアアァア!」
なおも激しく全身を震わせるアイラに、ようやくモイラが声を放つ。
「落ち着いて下さい、アイラさん! 落ち着いて――」
ふと、それまで空をさまよっていたアイラの視線が、モイラの黒い瞳で止まった。
エメラルドグリーンの、綺麗な瞳。
モイラは魅入られたように、その瞳を見つめた。そこに、異様な光が含まれていることを感じる。動物的な、野性的な、獣の目に宿る光……。