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文久2(1862)

開国開城10:薩摩藩の国政進出:
島津久光の率兵上京と寺田屋事件

<要約>

桜田門外の変において水戸浪士との連携を自重した薩摩藩は、一藩をあげての国政進出を画策した。文久2年、薩摩藩の実力者(藩主の父)島津久光は、公武一和を推し進めるため、軍事力と朝廷の勢力を背景とした幕政改革の断行をめざして、率兵上京した。

一方、久光の上京の動きを討幕挙兵の機会だと期待した志士たちは、京阪に集り、これに薩摩藩激派の一部も加わっていた。彼らは関白九条尚忠と京都所司代酒井忠義の襲撃を行うため、伏見の寺田屋に集合したが、久光はこれを阻止するため、藩士を寺田屋に送って鎮撫にあたらせた。死傷者数名を出したが、激派の暴発は防がれた(寺田屋事件)。

このときの所司代酒井は、浪士が所司代襲撃を企てたことに狼狽して二条城に引き上げ、久光が兵を率いて御所内に入ることも阻止しえなかった。結果、京都における幕府の権威は大きく失墜した。

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勅使東下と文久の幕政改革


A.薩摩藩国父・島津久光の率兵上洛
(文久2/1862年4月)


将軍:家茂 首席老中:久世広周、 老中:板倉勝静
天皇:孝明孝明天皇 関白:九条尚忠

◆薩摩藩、挙藩的中央進出へ

桜田門外の変のとき、薩摩藩は自重して水戸浪士と連携しなかった。また、藩主茂久は参勤交替の途上にあったが、事変の報をうけると、引き返した。しかし、ライバル長州藩の中央政界での活躍(長井雅楽の航海遠略策)は薩摩藩を刺激した。

文久元年、藩主の父で実権を握っていた島津久光は、革新派(精忠組)の大久保一蔵(利通)を登用し、藩政を改革して挙藩的な中央進出を画策した。久光らの方針は前藩主斉彬の遺志を受け継いで、率兵東上し、朝廷と幕府の対立を調整して(公武合体)、幕政改革を行うことだった。しかし、いくら薩摩藩の実力者とはいえ、大名ではない陪臣で無位無官の久光がそのような運動を行うことは幕府の禁じるところだった。そこで、文久元年12月25日、久光は大久保を上京させ、朝廷工作にあたらせた。大久保は、薩摩藩と縁の深い近衛忠房に薩摩藩の上洛計画を説明し、支持を求めた。安政の大獄の記憶も新しい近衛は申し入れを断ったが、一方で、幕政改革を幕府に建白して聞き入れられない時は、公然朝廷に願い出れば勅命が出るだろうと伝えた。大久保は2月に帰国した。

◆薩摩藩国父・島津久光の率兵入京

文久2年4月16日、久光は参勤交替名代の名目で藩兵約1000名(700名説も)を率いて入京した。久光は入京すると即日、近衛邸に伺候し、上洛・出府の真の理由は、前藩主斉彬の遺志を継ぎ、公武合体による朝威振興と幕政改革を建白することにあると説明し、幕政改革に関する意見書を提出した。その大要は、薩摩藩に滞京守護の勅命を下賜を願い、その武力によって朝廷の権威を確立し、その権威をもって、一橋慶喜・松平春嶽を登用させて幕政を改革しようというものだった。
  1. 和宮降嫁は幕府の奸巧であり、このうえどのような邪謀があるか測りしれない。このような危急のときには「皇国復古の御大業」を建てることが願わしい。
  2. そのためには、安政の大獄の二の舞にならないよう武力が必要であり、薩摩藩に滞京守護の勅命を下されたい、
  3. 「非常の聖断」で江戸に勅使を下し、一橋慶喜を将軍後見職に、松平慶永を大老にするなど幕政改革を命じられたい。また、尾張、長州、仙台、因幡、土佐にも事の次第によっては忠勤するよう勅命をだしてほしい。
  4. 勅命によって九条関白を罷免し、青蓮院宮の幽囚を解かれたい。
  5. 真意はあくまでも干戈を交えず、国体を傷つけぬことにあり、これは「徳川家御扶助・公武合体の叡慮」、また先君(斉彬)の遺志どおりである。
孝明天皇は久光の建言を嘉納し、久光には浪士鎮撫の内勅を下した

島津久光の上京に対応したのは議奏の中山忠能(なかやま・ただやす)と正親町三条実愛(おおぎまちさんじょう・さねなる)だったが、その陰にいたのが岩倉具視と大原重徳だった。
久光東上に反対した西郷隆盛:無位無官である久光が率兵東上し、武力を背景に幕政改革を迫るということは、前代未聞であり、薩摩藩内にも反対があった。逆に、精忠組激派には、久光の上京を機に討幕挙兵を謀ろうという動きがあり、諸国の同志と連絡をとっていた。東上計画の強行により不測の事態が起ることを恐れた大久保は、大島に潜居していた西郷隆盛を呼び戻そうと考えた。大久保の尽力で帰国した西郷は、しかし、東上計画に反対し、延期を主張した。久光は東上を3月16日に延期し、大久保のとりなしで西郷を先発させて九州の情勢を観察させ、下関で久光を待たせることにした。ところが、下関に到着した西郷は、久光の到着を待たず、浪士平野國臣らとともに大坂に向ってしまった。西郷の命令無視に激怒した久光は、西郷が浪士と行動をともにしている報告を受けると、逮捕・薩摩送還を命じた。西郷が浪士と組んで挙兵に加わっていると思ったからである。西郷は再び遠島になった。
西国浪士の決起と清河八郎

西国においては、岡藩の小河弥右衛門、久留米藩の真木和泉、肥後藩の松村大成、筑前藩の平野國臣(次郎)、秋月藩の海賀宮門などの草莽浪士が討幕挙兵を唱えていた。

文久元年2月、公卿中山家の侍臣田中河内介が筑前大宰府を訪問し、真木・松村・平野や肥後藩轟武兵衛と会見し、次に薩摩に入って大久保利通(一蔵)、海江田信義(有村俊斎)らと会見した。田中は「叡慮のある所を語りて尊攘の大義」(『徳川慶喜公伝』)を説いた。

同年11月、出羽出身の清河八郎が、田中を訪れた。清河は幕府が天皇譲位の先例を調査させたという情報を伝えた。清河・田中は、方便として、青蓮院宮の密旨を奉じていると称して同志を募り、所司代酒井忠義を斬って、尊王攘夷の挙兵を起こそうと決した。清河は、中山忠愛の手書と田中の添書をもって、遊説のために西下した。筑後・肥後・豊後を廻って志士と会って、廃帝説を唱えて天皇の位が危ういと論じ、また平野次郎・伊牟田尚平を薩摩の精忠組に派遣した。その結果、清河は京都で薩摩藩討幕挙兵のための勅書を得ることになり、平野・真木はその同志を募ることになった。

翌文久2年1月、京都に戻った清河は、田中とともに中山忠愛を奉じて薩摩に入り、島津久光に挙兵を促そうとしたが、西下の費用の工面がつかなかった。さらに、中川宮(青蓮院宮)の「密旨」を奉じて西下しようとしたが、また費用が足らず、西下は果たせなかった。

そうしているうちに、薩摩藩の柴山愛次郎、橋口荘介が清河八郎に会い、久光東上の計画を告げ、「名義は藩主の参勤猶予を謝するにあれども、実は諸国の義士を召し、退去して時局を救済せんとの希望なり」と伝えた。清河は西下の計画を中止し、久光を「伏見に要して盟主となし、遥に水戸の有志とも相応じて事を挙げんと、激を伝へて鎮西の志士を召集」(『徳川慶喜公伝』)した。
長州藩
島津久光の率兵入京をきいた長州藩は、世子毛利定広を帰国させることにし、途中で善後策を講ずるために京都に立ち寄らせた。長州藩は朝廷工作により、浪士鎮撫と国事周旋の朝命を下賜された。
関連:「やっぱり幕末薩摩藩

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B.寺田屋事件
(文久2/1862年4月)


将軍:家茂 首席老中:久世広周、 老中:板倉勝静
天皇:孝明孝明天皇 関白:九条尚忠

◆討幕派の大阪集合

久光の率兵上京の目的は討幕挙兵ではなかったが、一部の藩士や西国浪士は挙兵を信じて大坂に集まってきた。彼らは幕政改革は迂遠であり、討幕こそが回天の偉功だと思っていた。この動きを煽動したのが出羽出身の清河八郎(のちの浪士組結成の立役者)や公卿中山忠愛の家臣田中河内之介だった。呼応して集まった者には平野国臣(のち生野の変を起こす)、宮部鼎蔵(のち池田屋事件で戦死)などがいた。

◆討幕派の関白・所司代襲撃計画

彼らは大阪の薩摩藩邸などに入り(動きを監視しようという薩摩藩の計略だった)、久光の挙兵を待ったが、一向にその動きがないので、関白九条尚忠と所司代酒井忠義を襲撃して「義挙」の口火とすることとした。久留米からは真木和泉(のち禁門の変で戦死)も着坂し、襲撃に参加することになり、決行を前に、同志約数十名が伏見に上って寺田屋に集合した。その大半は有馬新七などの薩摩藩士だった。

◆寺田屋事件

挙兵組の動きは京都の薩摩藩邸に把握されていた。4月23日、襲撃計画を知った島津久光は、鎮撫のため奈良原喜八郎ら8名を寺田屋に遣わした。奈良原らは最初、説得を試みたが、有馬らが受け入れなかったので、上意討ちとなった。その他は薩摩藩邸に拘留され、関白・所司代の襲撃は未然に防がれた(★)。<志士詩歌

*「寺田屋事件」関連の日々の動き:文久2年4月6日−東上中の島津久光姫路着。西郷隆盛処分を決める4月8日−平野國臣、久光に期待する「討幕三策」を朝廷に 4月9日−久光、兵庫着。大久保利通、西郷に「決断」申し入れ。4月10日−久光、大坂着。激派に諭告。 4月13日-久光、率兵して伏見入り 4月16日−久光非公式に入京・幕政改革を進言。久光に滞京・浪士鎮撫の勅命 4月17日−久光、入京。堀次郎、18日決起の激派説得4月18日−久光、有馬新七ら激派説得に奈良原喜左衛門・有村俊斎を派遣 4月20日-久光の命を受け、大久保利通、激派説得4月22日−寺田屋事件前日の動き 4月23日寺田屋事件/長州藩久坂玄瑞ら、寺田屋事件の報をきいて所司代襲撃を中止/ 4月27日−薩摩藩、田中河内介父子・海賀宮門らを海路薩摩藩へ護送。
寺田屋事件の翌24日、孝明天皇は久光に内勅を下賜して、浮浪鎮撫の功を賞した。(★)

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勅使東下と文久の幕政改革

更新日:2001/5/24, 2003/5/8

<主な参考文献>
『官武通紀』・『徳川慶喜公伝』・『昔夢会筆記』・『開国と幕末政治』・『大久保利通』・『島津久光と明治維新』・『清河八郎』

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