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| 文久2(1862) |
<要約>
| 桜田門外の変において水戸浪士との連携を自重した薩摩藩は、一藩をあげての国政進出を画策した。文久2年、薩摩藩の実力者(藩主の父)島津久光は、公武一和を推し進めるため、軍事力と朝廷の勢力を背景とした幕政改革の断行をめざして、率兵上京した。 一方、久光の上京の動きを討幕挙兵の機会だと期待した志士たちは、京阪に集り、これに薩摩藩激派の一部も加わっていた。彼らは関白九条尚忠と京都所司代酒井忠義の襲撃を行うため、伏見の寺田屋に集合したが、久光はこれを阻止するため、藩士を寺田屋に送って鎮撫にあたらせた。死傷者数名を出したが、激派の暴発は防がれた(寺田屋事件)。 このときの所司代酒井は、浪士が所司代襲撃を企てたことに狼狽して二条城に引き上げ、久光が兵を率いて御所内に入ることも阻止しえなかった。結果、京都における幕府の権威は大きく失墜した。 |
| 将軍:家茂 |
首席老中:久世広周、 老中:板倉勝静 |
| 天皇:孝明 |
関白:九条尚忠 |
◆薩摩藩、挙藩的中央進出へ
桜田門外の変のとき、薩摩藩は自重して水戸浪士と連携しなかった。また、藩主茂久は参勤交替の途上にあったが、事変の報をうけると、引き返した。しかし、ライバル長州藩の中央政界での活躍(長井雅楽の航海遠略策)は薩摩藩を刺激した。 |
島津久光の上京に対応したのは議奏の中山忠能(なかやま・ただやす)と正親町三条実愛(おおぎまちさんじょう・さねなる)だったが、その陰にいたのが岩倉具視と大原重徳だった。 |
| 西国浪士の決起と清河八郎 西国においては、岡藩の小河弥右衛門、久留米藩の真木和泉、肥後藩の松村大成、筑前藩の平野國臣(次郎)、秋月藩の海賀宮門などの草莽浪士が討幕挙兵を唱えていた。 文久元年2月、公卿中山家の侍臣田中河内介が筑前大宰府を訪問し、真木・松村・平野や肥後藩轟武兵衛と会見し、次に薩摩に入って大久保利通(一蔵)、海江田信義(有村俊斎)らと会見した。田中は「叡慮のある所を語りて尊攘の大義」(『徳川慶喜公伝』)を説いた。 同年11月、出羽出身の清河八郎が、田中を訪れた。清河は幕府が天皇譲位の先例を調査させたという情報を伝えた。清河・田中は、方便として、青蓮院宮の密旨を奉じていると称して同志を募り、所司代酒井忠義を斬って、尊王攘夷の挙兵を起こそうと決した。清河は、中山忠愛の手書と田中の添書をもって、遊説のために西下した。筑後・肥後・豊後を廻って志士と会って、廃帝説を唱えて天皇の位が危ういと論じ、また平野次郎・伊牟田尚平を薩摩の精忠組に派遣した。その結果、清河は京都で薩摩藩討幕挙兵のための勅書を得ることになり、平野・真木はその同志を募ることになった。 翌文久2年1月、京都に戻った清河は、田中とともに中山忠愛を奉じて薩摩に入り、島津久光に挙兵を促そうとしたが、西下の費用の工面がつかなかった。さらに、中川宮(青蓮院宮)の「密旨」を奉じて西下しようとしたが、また費用が足らず、西下は果たせなかった。 そうしているうちに、薩摩藩の柴山愛次郎、橋口荘介が清河八郎に会い、久光東上の計画を告げ、「名義は藩主の参勤猶予を謝するにあれども、実は諸国の義士を召し、退去して時局を救済せんとの希望なり」と伝えた。清河は西下の計画を中止し、久光を「伏見に要して盟主となし、遥に水戸の有志とも相応じて事を挙げんと、激を伝へて鎮西の志士を召集」(『徳川慶喜公伝』)した。 |
| 関連:「やっぱり幕末薩摩藩」 |
| 将軍:家茂 |
首席老中:久世広周、 老中:板倉勝静 |
| 天皇:孝明 |
関白:九条尚忠 |
◆討幕派の大阪集合
久光の率兵上京の目的は討幕挙兵ではなかったが、一部の藩士や西国浪士は挙兵を信じて大坂に集まってきた。彼らは幕政改革は迂遠であり、討幕こそが回天の偉功だと思っていた。この動きを煽動したのが出羽出身の清河八郎(のちの浪士組結成の立役者)や公卿中山忠愛の家臣田中河内之介だった。呼応して集まった者には平野国臣(のち生野の変を起こす)、宮部鼎蔵(のち池田屋事件で戦死)などがいた。 |
更新日:2001/5/24, 2003/5/8
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<主な参考文献>
『官武通紀』・『徳川慶喜公伝』・『昔夢会筆記』・『開国と幕末政治』・『大久保利通』・『島津久光と明治維新』・『清河八郎』 |
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