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文久3(1863)

開国開城25:朝廷参豫会議の誕生と公武合体体制の成立 
(文久3年12月/元治1年1月)

<要約>

文久3年8月の禁門の政変で、長州藩と尊攘急進派勢力は一掃された。その後、京都には後見職一橋慶喜、島津久光(薩摩藩国父)、松平春嶽(前総裁職)、伊達宗城(前宇和島藩主)、山内容堂(前土佐藩主)といった有力諸侯が続々と集まった(A.政変後の政局)。その狙いは文久3年春に果たせなかった公武合体体制の確立だった。薩摩藩の周旋の結果、彼ら有力諸侯は朝廷参豫に任じられ、朝廷における国事の議論に参加することとなった。B.参豫会議の誕生

さらに、翌元治元年1月には将軍家茂が再上京し、やはり公武合体派の天皇の信任を受ける。公武合体体制がここに成立したのである。C.公武合体体制の成立

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参豫の幕政参加・長州処分・横浜鎖港問題と参豫会議の崩壊


A.政変後の政局
(文久3年12月)

幕府/
京都
後見職:一橋慶喜27歳 守護職:松平容保29歳 所司代:稲葉正邦(淀)30歳
幕府/
江戸
将軍:家茂18歳 総裁職:松平直克 24歳 老中:酒井忠績 36歳
老中:板倉勝静41歳 老中:水野忠精 32歳 老中:有馬道純 27歳
老中:井上正直 27歳 老中:牧野忠恭 40歳
  
朝廷 天皇:孝明孝明天皇33歳 関白:鷹司輔熙 57歳
⇒二条斉敬(12/23〜)48歳
国事扶助:中川宮40歳
  年齢は数えです

◆政変後の京都政局

●急進派公卿・長州処分、反復の叡慮、親兵解散
会薩−中川宮連合による禁門(8.18)の政変(こちら)の結果、京都から長州・尊攘急進派勢力が一掃され、公武合体派が朝廷を掌握した。三条実美ら急進派公卿の言動は「叡慮を矯むること容易ならざる次第」であったと批判され、都落ちした七卿の官位は停止され、残留した急進派の更迭や処罰が行われた(こちら

また、8月26日には「是までは彼是真偽不分明の儀ありたれども、去る18日以後申し出づる儀は、朕が真実の存意なれば、諸藩一同心得違いあるべからず」という宸翰が諸大名に伝宣されました。要するに8.18政変以前の勅を否定するもので、当時、尊攘急進派には「反復の叡慮」と呼ばれたこちら

さらに、長州藩に対しては、29日、藩主父子取調べ、九門内の藩士往来禁止、藩主父子の上京禁止、留守居・添役以外の藩士帰国が命じられた(こちら)。

また、9月5日には、薩摩・土佐両藩の親兵解散の建議が容れられ、親兵が解散になった。(←日付は『徳川慶喜公伝』、4日説『七年史』あり)。3月18日の親兵設置の幕命から200日足らずでの解散だった(親兵設置の経緯はこちら)。親兵が解散となると同時に、諸藩の京都守衛の場所が定められた。

●攘夷強硬派諸侯の退京と公武合体派諸侯の入京
政変で、尊攘急進派勢力は一掃されたが、在京の攘夷強硬諸侯の備前藩主池田茂政(いけだ・もちまさ)、因幡藩主池田慶徳(いけだ・よしのり)らが攘夷を断念したわけではなかった。彼らは、長州に同情的で、長州藩・七卿の行動は攘夷の勅意を貫徹しようとする心がけからでたものであるとして、寛大な処分を求めた(こちら)。

一方、朝廷は、公武合体体制を固めるため、薩摩藩主父・島津久光、前越前藩主・松平春嶽、前土佐藩主・松平容堂、前宇和島藩主・伊達宗城ら有力諸侯を召し出した。上京の待ち望まれていた最大の実力者久光は藩兵(一説には約1万5千人)を率いて10月3日に入京した(こちら)。 久ついで同月18日には春嶽が着京(こちら)し、翌11月3日に宗城、12月28日に容堂が入京した。入れ代わるように攘夷強硬派諸侯は次々と退京していき(こちら)、京都では薩・越ら公武合体派諸侯が政局を動かすようになった。【関連】「覚書9朝廷参豫関連会合一覧(文久3年11月〜元治1年4月)

●久光の建白と久光への密勅21条孝明天皇
久光は上京して間もない10月15日、中川宮に対して(1)天皇・朝廷が旧弊を改めて、天下の形勢・人情・事変を洞察し、「永世不抜」の基本を立てるよう遠大な見識をもつこと、その上で(2)大策(=国是)決定には列藩上京による「天下の公議」を採用することを建白した(こちら)

孝明天皇は、11月15日、近衛前関白を通して、久光に宸翰(密勅21条)を下した。その主な内容は、8.18政変は天皇の意思であることの確認、武備不十分の状態での無理な攘夷の否定、急進派の唱える王政復古の否定と幕府への大政委任の意向、三条実美ら七卿や鷹司関白への処分などで、旧来の公武合体体制を強く支持するものであった(こちら)。主要事項については久光の意見を問うものでもあった。久光は、基本的に天皇の意見を支持する奉答書(但し、攘夷については鎖港反対を主張)を近衛前関白を通じて29日に提出した(こちら)。

◆横浜(一港)鎖港問題と将軍の再上洛問題

●将軍東帰後の状況
攘夷実行を約束して東帰した将軍だったが、横浜鎖港は実行されず、 6月25日には将軍譴責の勅諚が下され(こちら)、勅諚伝達の使者として、 7月15日、禁裏附武士小栗正寧が江戸に到着した。善後策を協議した幕府は、後見職一橋慶喜に関東の状況を説明させるために上京させようと決めた。しかし、その後、長崎・箱館・横浜の三港全部の閉鎖は無理だが、せめて横浜一港だけでも閉鎖して違勅を逃れ、そのうえで局面打開を図ろうという考えから、横浜鎖港交渉開始を決定したため(こちらこちら)、8月13日、慶喜の上京は延期された。

●政変後の攘夷督促
8月18日の政変で、尊攘急進派七卿や長州藩は京都は追放されたが、孝明天皇が頑固な攘夷主義者であることには変わらず、19日に、朝廷は、攘夷督促の令を出した(こちら)。さらに、9月1日、攘夷別勅使有栖川宮・副使大原重徳の東下を決定し、守護職・松平容保に攘夷別勅使に随行を命じるとともに、後見職一橋慶喜に鎖港督促の沙汰を下した(こちら)。また、同月14日には、政変後の騒然とした情勢下の天機を伺い、攘夷(横浜鎖港)遅延が止むを得ない事情を説明するために上京・参内した在京老中酒井忠積に対し、改めて攘夷を促した(こちら)

●横浜鎖港交渉開始
政変後、幕府には、京都の情勢が危ういので何をおいても(鎖港を据え置いても)将軍が上洛し、閉鎖の利害も奏上すべきだという考えが支配的になったが、8月23日、慶喜と老中板倉勝静の<最近の乱のもとは全て外国問題に起因する。鎖港の上にこそ将軍が上洛すべきである>との主張を容れて、横浜鎖港を改めて決定した(こちら)。9月、幕府は各国公使と鎖港談判を開始したが、交渉は難航した。そこで、本国政府と直接交渉させるため、12月末、鎖港交渉使節をヨーロッパに向けて出立させた(こちら)

●上洛の勅命
幕府は鎖港交渉開始を守護職松平容保から朝廷に報告させた(こちら)。これを受けて、朝廷は、別勅使東下猶予を決定するとともに、諸藩に対して攘夷は幕府の指揮を受けるよう通達した(こちら)。その一方で、鎖港交渉について詳細を説明させるために、慶喜の上京、次いで将軍の上洛を命じた(こちら)。幕府は前回の上洛が屈辱的だったことに加え、横浜鎖港交渉が行き詰まっていることもあり、再上洛には消極的で、一度は上洛を辞退し、代わりに慶喜を上京させることにした(こちら)。しかし、再度に渡る召命(こちら)により、11月15日に将軍上洛を最終決定した(こちら)。

しかし、監察(目付)ら有司中にはなおも上洛反対を唱える者が多く(こちら)、将軍の上洛はすぐには実現しなかった。将軍上洛を促すために東下した町奉行・永井尚志の説得により、11月26日、幕府は、ようやく12月下旬の将軍出立を内定した(こちら)。家茂は、12月27日に江戸を出立し、28日、軍艦翔鶴丸で海路上洛の途についた。 

関連:テーマ別文久3年■政変直後の京都政局 ■島津久光の召命と三度目の上京  ■横浜鎖港交渉 ■松平春嶽の再上京   ■将軍・後見職の再上洛 
■横浜鎖港問題と慶喜の後見職辞表
「鎖港攘夷の実効」(具体的には生麦賠償の拒否・破約攘夷)をあげることを名目として東下の勅許を得た慶喜は、5月9日に登城して鎖港攘夷の勅旨を伝えて談判開始を指示したが、わずか4日後の14日には後見職辞表を関白に送り、そのむね幕閣に伝えた。老中を始めとして破約・鎖港攘夷に誰ひとり同意するものがなく、実効はあがらないというのが理由である(こちら)。朝廷が辞表を却下さすると、6月13日には即時攘夷ができないことを理由に二度目の辞表を提出した(こちら)。さらに、生麦賠償問題や下関外国船砲撃事件における薩長処分に関して、幕府が自分の意見を採用しないため、後見職は名のみで実がないと、6月24日には3度目の後見職辞表を朝廷に提出した(こちら)。今度も、朝廷から強く慰留されたため、「上京の上委細天意を伺ひ、御沙汰次第、如何やうにも捨身の微忠を尽し奉るべし」との決意を朝廷に奏した(こちら)

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B.朝廷参豫会議の誕生
(文久3年12月)

幕府/
京都
後見職:一橋慶喜27歳 守護職:松平容保29歳 所司代:稲葉正邦(淀)30歳
幕府/
江戸
将軍:家茂18歳 総裁職:松平直克 24歳 老中:酒井忠績 36歳
老中:板倉勝静41歳 老中:水野忠精 32歳 老中:有馬道純 27歳
老中:井上正直 27歳 老中:牧野忠恭 40歳
  
朝廷 天皇:孝明孝明天皇33歳 関白:鷹司輔熙 57歳
⇒二条斉敬(12/23〜)48歳
国事扶助:中川宮40歳
年齢は数えです

◆朝廷参豫会議の誕生

● 後見職一橋慶喜の入京
文久3年11月26日、朝廷の召命を受けて後見職一橋慶喜が着京した(こちら)。すでに京都には松平春嶽、島津久光、伊達宗城が入京しており、慶喜は彼らと集まって会合をもつようになった。

● 薩摩の主導による朝廷参豫会議の誕生
12月5日、慶喜邸における集会において、久光が、<公卿は優柔不断で、われわれ武家が決めても詮無く、このままではとうてい大事が行われがたい。この際、賢明諸侯を朝廷の議奏に加えるべきである>と提案した(こちら)。一同賛成し、朝廷から沙汰がでるよう薩摩藩が周旋することになった。薩摩藩の朝廷工作の結果、12月30日に慶喜・春嶽・容保・容堂・宗城を朝議参豫に任命するとの沙汰が下りた。(久光は翌元治1年1月13日に任命)。以後、参豫は、朝議に参加し、公武合体派・雄藩の代表が国政の重要事項の決定に関与することになった(こちら)。

参豫諸侯は、元治1年1月〜3月にかけて朝議に参豫したが(朝廷参豫会議)、それ以外にも、二条城で幕府首脳と会合を行った(仮に二条城会議と呼ぶ)。また参豫諸候だけでも会合をもち(仮に参豫集会と呼ぶ)、国政を評議した。

● 雄藩代表の政治参加と慶喜
参豫は朝廷の職ではなかった。また、朝廷参豫会議は、将軍後見職の慶喜・守護職の容保という幕府の代表者が参加しているが、幕府の機関ではない。公武合体的な組織だが、幕藩体制下では認められなかった雄藩代表の政治参加が基本であり、旧来の朝幕関係の枠組からは、はみ出すものだった。将軍・老中が江戸にいて不在のまま、京都には、新たな政治機関が、「雄藩」(薩摩藩)の主導で創出されたことになる。

実は、春嶽は、薩摩藩が朝廷工作を行っている間に、慶喜を訪問し、慶喜から<時勢に適合した政体を目指すには幕習を脱した創業が必要である>との言質を引き出していた。さらに、春嶽は<創業は、現在、京都に出てきている諸侯と議論し、衆議一定の上確定すべきだ>と迫り、この点についても慶喜の同意を得ている(こちら)。久光や春嶽は、時勢に適合した新たな政体の第一段階として、諸侯から成る参豫会議を推し進めていたといえる。この段階で、これに対し、慶喜は積極的に動いてはいないものの、反対はしていなかった。

しかし、このような政治機関は、幕閣から快く思われるものではなく、慶喜は、幕閣と参豫諸候の間の板ばさみになっていった・・・。

関連:■テーマ別文久3年「参豫会議へ」 ■「覚書9朝廷参豫関連会合一覧(文久3年11月〜元治1年4月)


C.将軍再上洛と公武合体体制の成立
(元治1年1月)

幕府/京都 将軍:家茂19歳 後見職:一橋慶喜28歳 総裁職:松平直克 25歳
守護職:松平容保30歳 老中:酒井忠績 37歳 老中:水野忠精 33歳
所司代:稲葉正邦(淀)31歳
幕府/江戸 老中:板倉勝静42歳 老中:井上正直 28歳 老中:牧野忠恭 41歳
  
朝廷 天皇:孝明孝明天皇34歳 関白:二条斉敬 49歳 国事扶助:中川宮41歳
朝議
参豫
一橋慶喜28歳 松平容保30歳 松平春嶽(前越前)37歳
島津久光(薩摩国父)48歳 山内容堂(前土佐)38歳 伊達宗城(前宇和島)47歳
年齢は数えです

◆将軍の二度目の上洛

元治1年1月15日、上洛の勅命を受けていた将軍家茂が入京した(こちら)

◆二度の宸翰(内諭と詔書)及び朝廷の優遇孝明天皇

将軍家茂に対する朝廷の態度は、前回とはうってかわって好意的だった。孝明天皇は家茂入京翌日に勅使を二条城に派遣し、20日は内大臣宣下の内旨を下した。

●元治元年1月21日の内諭
1月21日、参内した家茂は、孝明天皇から、公武一和を支持する宸翰(内諭)を受取った。(こちら)

その要点は以下の通り
(1) 最近の内外の危機的状況は、将軍ではなく天皇に非がある
(2) 天皇と将軍との親睦が「天下挽回の成否」に重要である(「朕汝を愛すること如子、汝朕を親むこと父の如くせよ」)
(3) 外国の征服は国家の大事だが、「無謀の攘夷」は好むところではない。策略を議論した結果を奏上せよ。それに基づき「一定不抜の国是」を定めたい
(4) 容保・春嶽・宗城・久光(いずれも参豫諸候)は国家の枢機に任ずるに足る人材である。彼らとの協力して「衰運を挽回」せよ。

この日、家茂は、勅賜の板輿で御所の車寄まで乗り通すことが許可されるなど、朝廷側の待遇が前年の文久3年の上洛時とは格段の差だった。

●1月27日の詔書
さらに、1月27日、在京諸候42名を率いて参内した家茂は、諸侯の面前で、急進派公卿・長州の必罰、攘夷のための幕府・諸藩の武備充実、公武一和による天下一新の宸翰(詔書)を受け取ったこちら)

その要点は以下の通り
(1) 日本の武力は外国に比べて不十分であり、「妄に膺懲(ようちょう)の典を挙ん」とすれば、「国家不測」の事態になりかねない。そこで、まず、旧典を改め、冗費を省き、幕府・諸藩の武備を充実せよ。
(2) 三条実美らは天皇の命を矯めて「軽率に攘夷の令を布告し、妄りに討幕」を企てた。また、長州藩の「暴臣」のような「狂暴の輩」は、「故なきに夷船を砲撃」し、幕府の役人を暗殺し、実美らを本国に誘引した。彼らは「必罰」であるが、このようなことが起った非は自分にあり、慙愧に耐えない。
(3) 今の日本の砲艦は「洋夷の軽侮」を受けている。そこで、摂海の防備・各地要港の防備を整え、軍艦を整備し、将軍・諸大名が協力して攘夷に備え、武臣の職掌をつくせ。
(4) 将軍・諸大名は、「皆朕が赤子」である。共に天下を一新せよ

●請書の提出
1月27日の宸翰(詔書)を受取ってから約3週間後の2月14日、将軍は参内して請書を提出した(こちら)

その要点は以下の通り
(1) 以後、万事の旧弊を改め、諸侯と協力して、臣子の道を尽す。
(2) 冗費削減、武備充実し、摂海防御及び各国兵備強化、砲艦製造等、宸翰で命じられた件は、ますます勉励する。
(3) 「膺懲(ようちょう)を妄挙仕る間敷」との叡慮は固く遵奉し、「必勝の大策」を立てる。
(4) 「横浜鎖港の儀」は「既に外国へ使節差出」しており、「何分にも成功仕度奉存候得とも、夷情も測り難」い。
(5) そこで、「沿海の武備」の一層の強化に努め、武臣の職掌を固守し、「大計・大義ハ、悉く国是を定め」て天皇の判断を仰ぐ。

しかし、朝廷から横浜鎖港の意思が明確ではないとクレームがつき、幕府は、同月18日、横浜鎖港について別途請書を提出した→開国開城26参照。

◆薩摩の裏工作と慶喜・幕府の疑念

●薩摩の裏工作
実は、二度の宸翰は薩摩藩によって起草されたものであった(こちら)。ただし、公武一和の支持、武備不十分なまま行う無理な攘夷の否定、三条実美ら七卿に対する厳しい姿勢等は、前年(文久3年) 11月15日に久光に下された密勅21条にもあるように(こちら)、従来からの孝明天皇が言ってきたことである。

●宸翰に対する慶喜/幕府の疑念
慶喜は、1月21日の宸翰(内諭)について、参豫諸侯の具体名があったことで、「幕府の諸有司は少しく嫌疑の念を起し」たと、春嶽に語っている(こちら)。また、2月18日付水戸藩士書簡によれば、今度は、慶喜自身が、1月27日の宸翰に「開国の意味」が含まれると違和感を感じた。そして、調べた結果、二度の宸翰が薩摩藩によって起草され、密かに朝廷に提出されたものだとつきとめという(こちら)。

関連:■テーマ別元治1年「将軍の再上洛」 「将軍への二度の宸翰」■「覚書9朝廷参豫関連会合一覧(文久3年11月〜元治1年4月)

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参豫の幕政参加・長州処分・横浜鎖港問題と参豫会議の崩壊

(2002.4.12, 2005.4.20, 2011.1.6)

<主な参考文献>
『続再夢紀事』・『会津藩庁記録』・『玉里島津家史料』・『修訂防長回天史』・『昔夢会筆記』・『七年史』・『京都守護職始末』・『徳川慶喜公伝』・『維新史』・『日本歴史大系 開国と幕末』・『幕末政治と倒幕運動』・『幕末政治と薩摩藩』・『徳川慶喜増補版』

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