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開 国 前 夜 (2)

<要約>

天保15年(弘化元、1844)、オランダ国王は幕府に開国を勧告したが、鎖国を堅持する幕府は勧告を謝絶した。嘉永5年(1852)、オランダは、アメリカ提督ペリーが通商を求めに江戸に来航すると幕府に予告した。しかし、幕府は来航予告を極秘とし、表立った対策をとらなかった。A: オランダの開国勧告とペリー来航予告

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A. オランダの開国勧告とペリー来航予告
(弘化元〜嘉永5年/1845〜1852)

将軍:家慶 首席老中:土居利位→水野忠那→阿部正弘
天皇:仁孝→孝明 関白:鷹司政通

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オランダの開国勧告を謝絶

天保15年(弘化元、1844)5月、オランダ国王特使コープスが長崎に来航し、国王ウィレム2世の「日本国王(この場合は将軍)」宛親書を渡した。世界情勢に鑑みて日本が鎖国を続けることは不可能であると指摘し、開国を勧告する内容である。天保14年(1843)閏9月来の政争を制して弘化2年(1845)2月に首席老中に就いた阿部正弘(27歳)は、「開国は論外」とし、「鎖国政策を避戦対策より重視」していた(『幕藩体制の展開と動揺・下』)。同年6月、幕府は、鎖国(通商はオランダ・中国、通信は朝鮮・琉球に制限)は「祖法」であると開国拒否を通告した(★1)。阿部は、その一方で、海防問題を専門的に扱う海防掛を再置し、担当老中には牧野とともに自身が就任した。

米国司令長官ビットルの来航

弘化3年(1846)閏5月、アメリカ使節・東インド艦隊司令長官ビッドルが、巨艦2隻を率い、通商を求めて浦賀に来航した(通商を求めるアメリカ艦隊の来航はベリーが初めてではなかった!)。浦賀奉行所が、新たな国と通商・通信を行うことは国禁であると返答すると、ビットルは穏便に退去した(★2)。ペリーの浦賀来航7年前のことである。

幕府は、江戸湾防備担当の忍・川越藩や沿岸の大名に出兵を命じたが、軍事力の彼我の差は明らかだった。危機感を募らせた阿部は、海防強化(日本近海防備、洋式大艦建造等)異国船打払令の復活を図ったが、巨額の海防支出を幕府・諸藩に強いることは財政建て直しを重視する勘定方の抵抗にあった。江戸湾防衛には新たに会津・彦根藩が加えられたが、諸藩への海防命令は見送られ、洋式艦建造は否決された。また、打払令復活も、異国の軍事力に対抗できる海防なくしては無謀だとされ、度重なる阿部の諮問にも関わらず実現しなかった。

ペリー艦隊の来航予告と幕府の不作為

嘉永5年(1852)6月、新任のオランダ商館長クルチウスは別段風説書を長崎奉行に提出した。アメリカが日本との通商を求めてペリー提督の指揮する軍艦4隻を派遣し、艦隊は翌年4月頃にマカオを発して江戸へ向うことを予告するものだった(★3)。報告を受けた阿部は風説書を密書扱いとし、担当である海防掛以外には、表向きは御三家にも、ペリーが来航すれば応接することになる浦賀奉行にも知らせなかったという。(★4)。情報が極秘扱いになったので、当然、表立った対応策もとられなかった。予告されたペリー来航に対して、阿部は不作為を選んだのである★5)。
水戸藩
 徳川斉昭の復権:水戸藩主徳川斉昭は、天保の藩政改革や海防強化論者として知られていたが、天保15年(弘化元、1844)、将軍家慶への不敬を理由に隠居・謹慎を命じられ、失脚した。しかし、同年末に家臣・領民の雪怨運動で謹慎を解かれると、隠居の身分ながら、海防に関する幕府(阿部)の助言者となり、政治的復権を果たした。斉昭の主張は打払令復活と海防強化で将軍や阿部のめざすころと一致していたからである。⇒「水戸藩かけあし事件簿」
会津藩
江戸湾防備と海防諮問
:会津藩は文政3年(1820)に江戸湾警備を免除されてから、しばらくは海防から遠ざかっていた。しかし、弘化4年(1847)、ビットルが来航すると、海防強化をはかる幕府の命令により、忍・川越・彦根藩とともに、江戸湾防備を担当することになった。8代藩主松平容敬【かたたか】(容保養父)の時代である。会津藩では前回10年間の江戸湾警備を担当したことや財政難を挙げて辞退をはかったが、説得された。この時期、江戸湾防備についたことは、会津藩が海防問題について中央政局に参加するきっかけとなった。たとえば、嘉永2年(1849)、阿部から意見を求められた容敬は、異国船打払い令復活に反対し、四藩による江戸湾海防体制を効果的なものにするため幕府が規定を設けるよう申し入れている⇒「守護職事件簿」「前史(1)」
容敬の急死と容保の襲封:しかし、ペリー来航直前の嘉永5年(1852)、容敬は46歳で死去し、のちに守護職を拝命した容保【かたもり】が18歳で9代藩主に就いた。内外ともに多難な時期、あまりに早い容敬の死であった。
島津斉彬と阿部正弘:薩摩藩主島津斉興【なりおき】と世子斉彬【なりあきら】は不仲で、斉彬は40代になっても家督を譲られなかった。家臣も斉彬擁立派と斉興の愛妾・由羅の子久光擁立派が党争を繰広げた。阿部は斉彬を支援し、嘉永4年(1851)、圧力をかけて斉興を隠居させ、斉彬を藩主に就任させた。(★6
朝廷
 孝明天皇の践祚:弘化3年(1846)2月、父仁孝天皇の死去により、孝明天皇が16歳で践祚した。しかし、朝政は関白鷹司政通(64歳)が握っていた。
海防勅書:弘化3年8月、朝廷は幕府に対して、異国を侮らず恐れず、海防を強化して天皇を安心させよとの勅書を下し、同時に対外情勢を朝廷に知らせるよう要求した。(朝廷は最初から「夷国掃攘」だったのではない。開国貿易論者だったという、実力者鷹司関白の意向?)
ペリー来航予告:一件を機密とした幕府はもちろん朝廷には知らせなかった。しかし、鷹司関白は、姻戚関係のある徳川斉昭(実姉が鷹司夫人)より、ペリー来航の予告と幕府の不作為について情報を得ていた。
 
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更新:2002/10/24

<主な参考文献>
『集英社版日本の歴史15 開国と幕末』、『講談社版日本の歴史18 開国と幕末変革』、『日本開国史』、『幕藩体制解体の史的研究』、『日本歴史大系 幕藩体制の展開と動揺(下)』、『幕末の天皇』、『孝明天皇』、『開国への布石 評伝阿部正弘』、『人物叢書 江川坦庵』、『人物叢書 川路聖謨』、『逸事史補・守護職小史』、『徳川慶喜公伝』、『昔夢会筆記』、『七年史』、『会津松平家譜』、『会津歴史年表』、『覚書幕末の水戸藩』

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