誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士

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6. 大坂力士乱闘事件と老中格小笠原長行の率兵上京?
(2003.3.4 UP-2000.7.18作成の幕末館「今日の幕末京都」に追加・修正)

文久3年(1863)6月3日、下坂中の会津藩預かり壬生浪士数名が大坂力士数十名と乱闘となり、3〜5人を斬殺し、十数人を負傷させたという事件がありました。新選組ファンの間では有名な「大坂力士乱闘事件」です。彼らは、大坂で天下浪士と名乗り迷惑行為をしている浪士を捕縛するため下坂していました(小島鹿之助宛近藤書簡−『新選組日誌上』引用部分より)。

永倉新八直筆の手記(「文久浪士報国記事」)によると、経緯は次のようになります。

川涼みに出たところ斎藤一が腹痛を起こしたので仕方なく上陸し、住吉楼に向かう最中、力士が無礼を働いたが切り捨てるべきところを打ち倒しただけにしておいた。住吉楼で介抱していたところへ、50人ほどの力士が押し寄せて、攘夷のために与力から渡されていた六角棒を携えて打ちかかってきたので応戦した

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ところで、ちょうどこの時期、大坂では京都政局を揺るがす一大事件が起こっていました。幕兵千数百名を従えて海路大坂を目指していた老中格小笠原長行が、6月1日、大坂に到着し、率兵上陸していたのです(こちら)。小笠原の目的はもちろん入京です。翌、2日、驚愕した朝廷は容保を召しだして小笠原上洛阻止を命じ(こちら)、会津藩は3日には小笠原を説得するために藩士を派遣しました(こちら)。4日には将軍が直書をもって入京阻止をはかっています(こちら)。

しかし、壬生浪士はこのような時勢とは全くかやの外にあり、2日に下坂したものの、その目的は「不逞浪士」の捕縛でした。彼らが下坂したとき、大坂は突然の大兵の登場に騒然となっていたのではないかと思います。攘夷を行う将軍の先鋒となるつもりで残留していた水戸派の芹沢鴨を始めとする壬生浪士らには面白くない事態だったのではないでしょうか。そんなときに出くわした力士は攘夷のための六角棒を与えられており気勢もあがっていた・・・。乱闘に及んだのも、あせりからむしゃくしゃしていたうえ、攘夷の先鋒としての競争意識もあったのかも・・・ですよね?

小笠原の率兵上洛事件と大坂力士乱闘事件を絡めて描いているドラマや小説は寡聞のせいか知らないんですよね。今度の大河ではやってくれないかな〜。

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なお、近藤が小島鹿之助に送った手紙には「水稽古に出ていたが急病者がでたので下船して住家(酒楼)で介抱していたところ、裸の男たち20〜30人が理不尽にも打ちかかってきたのでやむをえず切り捨てた」と稽古中のことであり、力士がなんの理由もなく襲ってきたように書かれています。

さらに、芹沢・近藤が連名で東町奉行所に出した口上覚書では、「水稽古に出ていたが急病者がでたので下船して常安橋会所に向かう最中で道に迷い、裸の男たちに理不尽にも打ちかかられたのでやむをえず応戦し、軽症を負わせた。今夜彼らが徒党を組んで押し寄せたら容赦なく切り捨てるつもりなので届けておく」としています。遊び中ではなく稽古中であり、向かった先も酒楼ではなく会所、裸の男は理由なく打ちかかり、応戦したものの軽傷を負わせただけ・・・とかなり自分たちに都合のよい内容となっています。

この乱闘事件の原因については、芹沢が道をふさいだ力士を切り捨てたことがきっかけというくだりが定説のように流布しています・・・でも、、これは永倉の回想をもとにした読み物『顛末記』だけが根拠で、フィクションの可能性もあると思います。近藤・土方と対立して粛清された側が粛清されて当然の悪人のようにみえる資料がピックアップされる。その場面が繰り返されることによって史実であるかのように定着していく・・・、読み手は気をつけなきゃいけないと思います(しみじみ)。


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