7月の「今日」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 HP内検索 HPトップ
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■将軍東帰 【京】文久3年6月3日、孝明天皇は将軍家茂に剣を与え、速やかに東下して、外夷掃攘の功を遂げ、武威を海外に輝かせよ(「速東下、外夷掃攘之成功有之、武威海輝海外候様御沙汰候事」)と命じました。 将軍は以下の請書を提出しました。 「東下の御暇に付き、御剣賜り候段、特恩斜めならず威戴奉り候。慫の作未だ其の要を得ず候えども、綸ふつの重く謹んで其の旨を奏し、三家一橋申談じ、諸藩一致の力を以て、御国辱相成らざる叡慮貫徹候様、仕るべく存じ奉り候」(開国起源) 参考:『維新史』三(2004.7.21) ■小笠原の率兵上京 【京】文久3年6月3日京都守護職松平容保(こちら)は、前日(6月2日)に上陸阻止の朝命を下されたのを受けて、公用局の小野権之丞、外島機兵衛、秋月悌次郎、広沢安任らを淀に派遣して入京の不可を説かせました。 小笠原は容保の厚意を謝しながらも、「ただ大将軍の御前に出て天下の大事を建言せんとおもふのみ、其事だに成し得ば、退いて死を賜はるも敢えて辞せざるなり。朝廷に対し建言するの意は更になきことなり」(『七年史』)と答えたそうです。 参考:『徳川慶喜公伝』2・『七年史』一(2001.6.3) 関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」 「将軍東帰と京都守護職会津藩の孤立■テーマ別:「第2次将軍東帰問題と小笠原長行の率兵上京」 ■壬生浪士、大坂力士乱闘事件 【坂】同日、下坂中の壬生浪士が大坂力士数十名と乱闘となり、3〜5人を斬殺し、十数人を負傷させました。 このとき・・・ ・山南敬介は逃げる力士を一名斬殺したという。(『新撰組顛末記』) ・沖田総司は永倉新八とともに一人の力士を斬殺し、二人に傷を負わせるという。(西村兼文記『新撰組(壬生浪士)始末記』)また、沖田は八角棒で片鬢を打たれるが「刀を風車のように振り回して」闘ったともいう。(『新撰組顛末記』) ・永倉は沖田とともに一人の力士を斬殺し、二人に傷を負わせた。(西村兼文 『新撰組(壬生浪士)始末記』)また、永倉はこのとき島田魁のふった刀の先でけがをしたという。(『新撰組顛末記』) <ヒロ> 解説・コメントは「徒然」「大坂力士乱闘事件と小笠原率兵上洛?」にまとめました。 (2000.6.3) |
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