7月の「今日」  幕末日誌文久3 テーマ別文久3  HP内検索  HPトップ

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文久3年6月1日(1863年7月16日)
【坂】老中格小笠原長行の率兵着坂
【京】慶喜の使者、関白に幕府の京都武力制圧の風説を伝える。
【長】アメリカ軍艦、長州に報復。
【越前】挙藩上京して、朝廷に藩議を言上することを正式に決定しました。

■将軍東帰問題
●小笠原の率兵上京

【京】文久3年6月1日、老中格小笠原長行が千数百名を率兵して着坂、大坂に上陸しました(5月30日説あり)

<ヒロ>
5月8日に生麦事件償金を独断で交付した老中格小笠原長行は、19日、慶喜の命により、償金交付を朝廷に弁明するためとして、江戸を出立しました。しかし、すぐには京都へ向かわず、横浜に滞在し、28日にひそかに英艦を借り、歩兵と騎兵を合わせて約1600人を率いて乗船し、海路大坂へ向っていました。

その目的は、武威をもって攘夷の朝議を一変しようとしたのだという説、足止めされている将軍を迎え取るためだという説し、英仏両国の軍事援助計画に支援された打倒尊攘急進派クーデターだったという説(往年の京都武力制圧計画の実現)がありますが、確かなことはわかっていません。ただ、小笠原はのちに公卿の中に内応する人がいたので上京したがその人が不慮の禍害を受けたため蹉跌したと語ったとされており、5月20日に暗殺された姉小路公知(こちら)とはかるところがあったと推側されています。

●慶喜の後見職辞表
【京】文久3年6月1日、後見職一橋慶喜の使者、水戸藩士梅沢孫太郎が上京して鷹司関白に面会し、慶喜帰府後の状況(生麦事件償金交付の経緯)と後見職辞職の裁可を促す書状を提出するとともに、江戸の風説を報告しました。

梅沢の伝えた江戸の風説の主なものは次のとおりです。
小笠原閣老が威力をもって公卿を取締まるつもりで歩兵千人ほどが上京中である
小笠原閣老の上京は、攘夷を破棄して開港説を言上し、開港説が容れられないときは将軍を連れて江戸に帰る計画である。
幕府の申し立てるとおりにできないときは、御所に放火し公卿を捕縛するつもりである。
(幕府は)薩長へ軍艦を差し向け、京都を屠るつもりである。
慶喜に天下(将軍位)を奪う底意があるとする風評が立てられている。

(『七年史』より:口語訳はヒロ)

おりしも小笠原が着坂したという報せが京都に届き、この風説をきかされた朝廷は大いに驚愕しました。

○梅沢(慶喜)の意図
梅沢が関白に伝えた風説は慶喜が口述したものを筆記して伝えたとされています。後年、慶喜はそのようなことをしていないと言っていますが、慶喜から関白への書状の別紙に「その余に認めかねる風説等は、同人(=梅沢)より御承知遊ばれたし」との文があり、慶喜が風説を伝えさせたのは間違いないようです。ただし、梅沢が慶喜の口述と同じことを伝えたかどうかまでは定かではありませんが。

梅沢は水戸藩家老武田耕雲斎の部下として慶喜の上京に随行したうちの一人で、一橋家用人となり、のち慶喜が将軍に就任したときには目付となった腹心ともいえる人物です。このため、慶喜(梅沢)がこのような不穏な風説を関白に伝えた意図は、朝廷を脅えさせ、小笠原の率兵上京を有利にさせて、京都の政局を一転させるためだったのではないかとも言われています

旧会津藩士山川浩の著わした『京都守護職始末』では、小笠原の率兵上京は「攘夷決行という折から、幕府の歩騎兵隊が将軍の手勢が少ないのを危ぶんで守衛のため」であり、慶喜が小笠原を讒言するようなことになったのは奇怪至極であるとし、旧会津藩士北原雅長のまとめた『七年史』では「(慶喜が)関東の閣老以下の服従せざるを怒り、其言を慎まで、妄りに流言を條列して関白に報ぜられしは、いと惜しむべし」と単純に、慶喜の意趣返しだと解釈しています。

幕府が御所に放火して急進派公卿を逮捕するという風説は、元治元年には主客をかえて長州藩が洛中に放火して公武合体派を殺害という風説となり、広く流布していきます

参考:『官武通紀』・『徳川慶喜公伝』2・『七年史』一・『京都守護職始末』(2000.7.16)

関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」 ■テーマ別:「第2次将軍東帰問題と小笠原長行の率兵上京

■越前藩の挙藩上京計画
【越前】文久3年6月1日、越前藩は、挙藩上京して、朝幕に藩議を言上することを正式に決定しました。言上内容は(1)外国公使を交えた朝幕要人の京都会議による「至当条理」に帰する開国鎖国の国是決定、(2)朝廷の裁断の権・賢明諸侯の大政参加・幕臣以外に列藩からの諸有司選抜、です

この日、越前藩では藩士一同を城中に集めました。春嶽帰国後から進めてきた上京計画を正式に決定するためです。(前日(5月30日)には、中根雪江が京から帰着していました)。

『続再夢紀事』によれば、この日決まった朝廷へ言上する藩議は以下の2点でした。
  1. 攘夷拒絶は実行すべきではないが、既に天下に布告した上は、その可否を論ずるに及ばない。この上は鎖港の談判がもし条理に適わねば「我国」の万世の汚辱ともなるので、この際、各国公使を京都に呼び寄せ、将軍・関白を始め、朝廷幕府ともに要路が列席して彼我の見るところを講究し、至当の条理に決すること 
  2. 幕府の施政は得失とも将軍が責任を負うべきだが、実際はすべての「裁断」が将軍から出ているのではない。特に最近失体が多いのは、幕吏に人を得ないからである。今後は朝廷が「裁断之権」をもち、賢明諸侯を機務に参与させ、諸有司の選抜方法としては幕臣だけでなく列藩中から広く「当器の士」を選ぶよう定めること
<ヒロ>
○挙藩上京
6月6日付小楠書簡によれば、現状のような禍乱に陥ったのは、幕府等が、(急進派の)「例之暴論」を恐れをなし、これまで明白に(開国が止むを得ぬ事情等を)言上しなかったため、(幕府の)「心と言」が一致せず、そこから「攘夷拒絶も御尤」となり、ついに、しまった、そこで、「一藩決死之覺悟」がなくては「十分之献言」はできぬし、それを実現することもできないため、挙藩

ここでいう朝廷は、現在の急進派が牛耳る朝廷ではなく、尊攘穏健派・公武合体派の天皇・公卿中心の朝廷です(そのための挙藩上京です)。

一点目は、実際には、積極開国をめざしています。

二点目については、これまでの続再夢紀事や小楠書簡では触れられていませんが、小楠は、6月6日付の書簡で、その大略を<幕府の失政の一々が大樹公の思召ではなく、いかに(朝廷が)責められようと大樹公にてはできない事情なので、朝廷が「黜捗進退」を決められ、有名諸侯を御挙用になり、諸有司も、必ずしも幕士に限らず列藩の有名の士も御登用になり、朝廷が「惣裁」されること、そうすれば、「日本国共和一致」となり、「治平」に帰すだろう>と説明しています。

●おさらい
春嶽は、3月21日に総裁職辞職届捨てのまま退京し(こちら)、小楠のいる福井に帰りました。(同月26日には逼塞)。

○外国船摂海侵入時の挙藩上京方針
京都では、攘夷の議論がますます喧しく、幕府は、春嶽退京翌々23日、水戸藩主徳川慶篤に外国処置の委任・東帰を達し(こちら)、慶篤は、24日、朝廷から将軍目代としての攘夷成功の沙汰を得て(こちら)、25日に出京しました(4月11日に江戸に到着)。一方、帰国した春嶽/越前藩は、鎖港交渉が不調に終わって、万一外国船が摂海侵入した時には、挙藩上京して京都を守衛し、さらにニ・三の大藩と連携して「皇国萬安の国是」確立の建議を・周旋する方針を固めており、近隣の加賀藩・小浜藩に使者を送りました(こちら)

○外国人・朝幕諸侯・草莽の大会議開催による「全世界の道理」に基づく国是検討を建議
その後、幕府は攘夷期日を5月10日と約束し(こちら)、4月22日には後見職一橋慶喜が攘夷実行のために東下していき(こちら)、近日中の鎖港交渉開始は免れえぬ状況になりました。春嶽は、せめて、その鎖港交渉を「条理」に基づくものにせんと、中根靭負を京都に派遣し、板倉老中に春嶽の意見を「演説」させました。その内容は「全世界の道理」に基づく国是検討のための、外国人・朝幕諸侯・草莽の大会議開催を求めるものでした(こちら)。5月13日のことです。

○外国船侵入を待たずに挙藩上京・決死の言上
相前後して、生麦償金支払の報や慶喜の後見職辞表が京都に届き(こちら)、朝廷と幕府の間には齟齬が生じてしまいました。もとより攘夷が実行できるわけもなかったのです。その上、幕府は、5月20日に、将軍東帰を請願しましたが、その際も、奸吏誅戮・攘夷実行など容易に実行できぬことを理由としていました(こちら)。(6月6日付小楠書簡によれば、幕府等が、(急進派の)「例之暴論」を恐れをなし、これまで明白に(開国が止むを得ぬ事情等を)言上しなかったため、(幕府の)「心と言」が一致せず、そこから「攘夷拒絶も御尤」となり、ついに

越前藩では、幕府のこの調子では、対外的にはさておき、国内的に公武の不和を生じ、諸侯も不服を申し立てるのは明らかであり、時機を逃さぬために、この際、外国船が摂海に侵入するのを待たずに、春嶽を先頭に一藩を挙げて上京して、「朝廷幕府に必死に言上」する案が浮上しました(こちら)。(これより先、17日に春嶽の逼塞・茂昭の御目通り差し控えが解除になりましたので、緊急時でなくても上京できる環境が整ったことも影響していると思われます)。

その言上内容は次の通りです。攘夷拒絶の件は、既に天下に布告になっているので今さら争わないが、在留外国人(公使)を京都に呼び寄せ、将軍・関白始めとする要路が列席して談判して、外国人の主意を聞き取り、その上で明らかとなる「道理」に基づいて、鎖国・開国・和戦とも決議すれば、「彼是共に安心の地」に至るだろうというのです。

つまり、外国拒絶という日本の国是は叡慮で決定しているが、国内だけでなく「全世界の道理」においても是となるかどうか、「地球上の全論」にかけて決定せねばならないという主張です。(この内容は、すでに5月13日に中根靱負が老中に春嶽の意見書として提出していました)

これには「一藩君臣再び国に帰らざる覚悟を極め」るべきだとの議論が起こり、既に、執政ニ三人には内談し、近日中に大評議を開くことになりました。

小楠も、このことは「一と通りの覚悟にて打立つ事」ではなく、春嶽公・当公を始め、「身を捨て家を捨て国を捨る」覚悟を決めないと難しいと考えていました。これまでは、みな、急進派公卿の「暴論」に恐れをなして、朝廷に明白にホンネ(開国の必要性等)を言上できず、そのため攘夷が国是になってしまったわけですが、それだけに、今回の言上・言上内容の実現には、これまでとは違う覚悟が必要だというのです。

一方、もし、藩議が決定すれば、隣国の加賀、肥後藩、薩摩藩等へ使者を派遣し、なるだけ三、四藩の同意を得た上で、いっせいに上京して言上すれば、必ず目的を達することができるだろうとみていました。

5月26日、越前藩は、大評議の上、上記挙藩上京計画を内定しましたが(こちら)、正式決定は、京都に派遣中の中根雪江の帰国・情報を待っていたようです。


恐らく、横井小楠が発案者だと思われます。小楠は、管理人が一番関心をもっている幕末人物なのですが、奥が深すぎてまだまだ理解が及ばないです・・・

参考:『続再夢紀事』二p40-42, P47-49(2004.7.16, 2012/5/13)
関連:■テーマ別文久2「国是決定:破約攘夷奉勅VS開国上奏」、「横井小楠」■テーマ別文久3「越前藩挙藩上京計画」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」

■長州藩の攘夷戦争
【京】文久3年6月1日朝廷は、長州藩に対し、5月10日のアメリカ船攻撃を称しました

「当月十日夜亜墨利加船、長門国豊浦郡府中に停泊之有り候処、大砲数発打払候趣。叡聞に達し候処、兼て布告之有り候拒絶期限相違ず掃攘及び候段、叡感斜ならず候。勉励之有り、皇国の武威を海外に輝べき様御沙汰候事」(毛利家記)

【長】文久3年6月1日、アメリカ軍艦ワイオミング号が長州に報復攻撃をしました。

長州が関門海峡を通過するアメリカ商船ペンブローグ号を砲撃してから15日後のことでした。ワイオミング号は砲台や軍艦を攻撃目標とし、長州の軍艦2杯を撃沈し、1杯を大破させました。長州側の死傷者は15名、アメリカ側は10名でした。長州藩は大砲の鋳造を急ぐとともに、江戸藩邸にいた村田蔵六(大村益次郎)を呼び戻すことにしました。


参考:『幕末長州の攘夷戦争』・『維新史』三(2000.7.16、2004.7.21)
関連:■開国開城:「賀茂・石清水行幸と長州藩の攘夷戦争」■テーマ別「長州藩の攘夷戦争

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