7月の「今日」  幕末日誌文久3 テーマ別文久3  HP内検索  HPトップ

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文久3年6月2日(1863年7月17日)
【京】幕府、若年寄稲葉正巳に小笠原入京をとめさせる
朝廷、京都守護職松平容保に入京阻止を命ず
【京】朝廷、慶喜の後見職辞表を却下
【京】長州藩主毛利敬親父子に召命の沙汰/
久坂玄瑞、朝廷に中国・オランダに関する方針をただす
【江】仏公使、幕府に艦隊出航を通告

■小笠原の率兵上京&将軍東帰
【京】文久3年6月2日、在京幕府は若年寄稲葉正巳(安房館山藩主)を枚方に派遣して、小笠原長行に上京せずに沙汰を待てと伝えさせました。

しかし、小笠原は「将軍家に言上の件は如何なる処罰を受けんも苦しからず。ともかくも入洛して将軍に謁見せん」と淀に進み、目付土屋民部・向山栄五郎を先発して入京させました。幕府の慣例で、目付が将軍の謁見を請うときは、老中も拒むことができなかったからでした。しかし、在京老中は言を左右にして、小笠原の上京を認めませんでした。

参考:『幕末外交談』・『徳川慶喜公伝2』(2004.7.21)

【京】文久3年6月2日、老中格小笠原長行の率兵着坂と京都武力制圧の風説を知って驚愕した朝廷は、京都守護職松平容保に小笠原の入京阻止を命じました。

この日、朝廷は容保を急に呼び出し、「図書頭(小笠原)は死を決し兵を率いて京師に侵入せんとす。宜しく兵を出して途上に要止すべし」と命じました。これに対し、容保は笑ってこう答えたそうです。「図書頭が上京を止むる、何ぞ衆力を須ひん、一使介にして足れり。かつ図書頭は命に違ふが如き者にあらざるなり。若し万一不慮のことあらば、容保か兵の固より備はれるあり、願はくは叡慮を労せらるるなかれ」。しかし、一橋慶喜の使者梅沢孫太郎のもたらした風説書(こちら)をみせられて愕然とし、急遽二条城に報告の使者を出したそうです。

<ヒロ>
慶喜−老中格小笠原長行の京都武力制圧計画は、在京の幕府関係者にはまったく寝耳に水だったようです。将軍家茂も京都守護職松平容保も小笠原の率兵入京を阻止しようと次々に使者を出すことになります。結局、この在京幕府と江戸幕閣間の齟齬により、小笠原の卒兵上京は失敗に終わります。そのわずか2ヶ月余後に、会津・薩摩による京都武力制圧(8.18の政変)が実施されることになりますが、これにより幕権が回復することはありませんでした。このとき、小笠原の引率してきた兵力をもって、将軍が自ら武力制圧をしていれば、幕府の主導権は回復できていたかもしれませんね?

また、将軍・老中が在京なのに、朝廷が幕府の京都武力制圧の風説書を最初に示した相手が容保で、しかも容保に直接小笠原阻止を命じたというのはおもしろいと思います。

参考:『七年史』一(2001.7.17)
関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」■テーマ別:「第2次将軍東帰問題と小笠原長行の率兵上京

■後見職一橋慶喜辞任問題
【京】文久3年6月2日、朝廷は、一橋慶喜の辞表を<後見職を元のように務めて将軍とともに攘夷に尽力するように>と却下しました。

慶喜は5月14日に辞表を関白宛に提出していました((こちら)

参考:『七年史』一、『徳川慶喜公伝』2、「官武通紀」(2001.7.17)
関連:■テーマ別:「慶喜の後見職辞任問題

■長州藩
【京】文久3年6月2日、朝廷は長州藩主毛利敬親父子の召命の沙汰を下しました。

「     長門宰相
追々切迫之時勢深被悩宸襟候。就ては御用も有之候間、父子の内申合、早々登京可有之御沙汰候事」

参考:『修訂防長回天史』三下p420(2004.7.25)
***
【京】同日、長州藩士久坂玄瑞らは、村田次郎三郎らと協議の上、オランダ・中国の両国に対する朝廷の方針をただす書を提出しました

「外夷拒絶之叡旨、下田・神奈川之両条約可被成御破却と之御事は兼て奉窺候処、唐蘭之儀は往年より和親交易仕来候国柄に御座候へば、癸丑戊午之御取締は素より御違変可被仰付候へ共、其余は癸丑戊午前通にして被差置候に御座候哉、追々被仰出候趣にては外夷は何国も同様右二国とても拒絶被仰付儀にて可有之と被奉察候傍、御問申上候間、御差図可被下候。以上」

朝廷から、のちに与えられた答書は以下の通り。
「唐之儀は往年より貿易之国柄、戊午以前之通、先被差置候。於蘭、癸丑戊午条約取締諸蠻同様に候間、今度破約之事」

<ヒロ>
久坂は前日に入京したばかりでした・・・。行動派です!

参考:『修訂防長回天史』三下p420(2004.7.25)

■残留浪士(壬生浪士)
文久3年6月2日、会津藩預かりの壬生浪士10名が、大坂で天下浪士と名乗り迷惑行為をしている浪士を捕縛するため下坂しました。(小島鹿之助宛近藤書簡−『新選組日誌』引用部分より)

<ヒロ>
翌日には大坂力士との乱闘事件が起っており、このときのメンバーから、下坂したのは芹沢鴨・近藤勇・山南敬介・沖田総司らだと推定されます。大坂は小笠原の率兵上陸で騒然としていたはずですが、彼らは時勢とは関係ないポジションにいたようです。

参考:『新選組日誌』上(2000.7.17)

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