7月の「今日」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 HP内検索 HPトップ
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■小笠原率兵上京 【京阪】文久3年6月4日、将軍家茂は直書を下して小笠原の入京を止めました。 6月1日に大坂に率兵上陸した老中格小笠原長行は、入京をめざして淀に入りましたが、京都からは、次々と入京制止の使者が送られていました。小笠原はそれらを説破し、なおも入京しようとしましたが、ついに、将軍が直書を下して入京中止を命じました。家茂の直書の大意は、「余がためにとて為すことの、存外不為のことのできたらんには宜しからず、よりて御所へ言上の上、呼び寄するまでは、入京を見合すべし」(『徳川慶喜公伝』より)だったといいます。将軍直々の命令を押し切るわけにもいかず、小笠原は淀に留まり、召命を待つことにしました(下坂説もあり)。 参考:『徳川慶喜公伝2』・『七年史一』(2001.7.19) 関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」■テーマ別:「第2次将軍東帰問題と小笠原長行の率兵上京」 ■越前藩挙藩上京計画 【越前】文久3年6月4日、越前藩は京都に藩士を送り、その報告をもとに進発日を決めることにしました。 挙藩上京は6月1日に決定されましたが(こちら)、京都から戻った中根雪江は、<両公の上京は未だその機ではない。また藩内にも異議を抱く者がないとはいえないだろう。篤と熟議するべきだ>との慎重論を、執政や小楠に説きました。 この日、越前藩では執政以下要職が集まり、挙藩上京についてさらに評議をしました。前藩主松平春嶽・藩主茂昭も出席し、横井小楠も陪席しました。この日の会議で小楠は、<出発日は、今一度、人を京都に派遣し、機会をはかった上で決めるべきだ>と述べ、その通りに決まりました。 即日、牧野主殿介が大番組一組を率いて京都に出発し、青山小三郎も出発しました。翌々6日は村田巳三郎が出立、その他、執政も、京都の情勢に応じて上京の予定でした。彼等の情報をもとに、大挙上京するか、平生より増員した程度で上京するかも決め、出京の日限もそのときに決めることになっていました。 <ヒロ> 前日には、攘夷実行のための将軍東帰の勅が下りていました(こちら)。機会はすでに去っていたのです。 越前藩が挙藩上京を考えていた時期は、小笠原の率兵上京時期と一致します。越前藩と小笠原の間に連携はありませんでしたが、仮に両者が合流していれば、歴史は変わっていたかもしれませんね? 参考:『続再夢紀事』二p47-49(2004.7.21) 関連:■テーマ別文久2「国是決定:破約攘夷奉勅VS開国上奏」、「横井小楠」■テーマ別文久3「越前藩挙藩上京計画」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」 |
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