「誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士」

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A-6 赤報隊関係書簡(1)
(慶応4年)1月11日付 太政官からの赤報隊への返書

慶応4年1月、鳥羽伏見の戦いで薩摩軍に属して戦った御陵衛士残党は、戦い後、油川錬三郎・相楽総三らとともに、綾小路俊実(前侍従、大原重徳の息子)・滋野井公寿(侍従)を奉じ、江州松尾山にて赤報隊を結成した。一番組長相楽総三、二番組長三樹三郎、三番組長油川錬三郎である。赤報隊は、相楽と元衛士の阿部十郎を使者として上京させ、挙兵の趣意を述べる綾小路・滋野井の書簡を太政官に差し出したという。以下は太政官からの返書。

東征が始まれば東海道鎮撫総督の指揮下に入って桑名城を攻撃せよとの内容であり、のちに「偽官軍」とされた赤報隊が新政府から「官軍」の一部だと認められていたことを示す文書である。

(史料写真はこちら

 (翻刻文)

来状令披見候
方今中興機
会不忍座視傍
観之思志より被及
脱走候條犯
朝憲候儀は甚
不容易義候得共
勤 王之為不顧
身命噴発
被及義挙候段ハ
神妙之義
叡感思食候然ニ
頃日追討之諸兵
決死奮戦之力ニより
賊徒速敗亡徳
川慶喜遂東奔ニ
及当方一旦鎮定ニ
及候上ハ其地屯集之
義徒等厚被加
鎮撫弥以砕励
赫然
皇軍之威光を被
輝候て必軽動無之
様可被致候猶征東
之官軍不日可及
進発候間東海
道鎮撫総督実
粱朝臣之手ニ属し
応援勠力桑名
城を襲撃可有之候
弥以勉励奉安
宸襟候様可有奉
上旨総裁宮御沙
汰有之候仍回答
如此候也

 正月十一日
(読み下し)

来状披見せしめ候。方今中興の機会、座視傍観忍ばざるの思志より脱走及ばれ候條、朝憲犯し候儀は甚だ容易ならざる儀に候えども、勤 王の為身命を顧みず噴発義挙に及ばれ候段は神妙の義、 叡感思食し候。然るに頃日征討の諸兵決死奮戦の力により賊徒速に敗亡、徳川慶喜遂に東奔に及び、当方一旦鎮定に及び候上は、其の地屯集の義徒等厚く鎮撫を加えられ、弥(いよいよ)以て砕励赫然、 皇軍の威光を輝かされ候て、必ず軽動之無き様致さるべく候。猶征東の官軍不日進発に及ぶべく候間、東海道鎮撫総督実粱朝臣の手に属し、応援勠力、桑名城を襲撃之有るべく候。弥以て勉励、 宸襟を安んじ奉り候様奉上有るべき旨、総裁宮御沙汰之有り候。仍て回答此の如く候也。

正月十一日
(2007/5/13)

注:鈴木家所蔵の書簡から解読しました。この書簡の解読については、西宮市郷土歴史資料館の江藤氏にご協力をいただきましたm(..)m。なお、句読点は管理人が任意につけました。


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