「誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士」
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慶応4年1月、三樹三郎ら御陵衛士残党は、油川錬三郎・相楽総三らとともに、綾小路俊実(前侍従、大原重徳の息子)・滋野井公寿(侍従)を奉じ、江州松尾山にて赤報隊を結成し、同月11日に新政府のお墨付きを得た(東海道鎮撫総督下に桑名進撃を命ずる書)。相楽は翌12日に年貢半減令の建白書と嘆願書を太政官に差し出した。それらにより、この沙汰書は下されたものとされる。内容は、東征の際は官軍の嚮導先鋒を務めること、それまで兵を募り糧食を蓄えること、東海道鎮撫使の指揮に随うこと、旧幕領において年貢半減令を宣言することを命じたものである。 のちに処刑され、晒し首にされた相楽ら赤報隊一番隊の主要メンバーの罪状に「勅命と偽り官軍先鋒嚮導隊と唱え」という一節があるが、彼らはこの沙汰書をよりどころにして自らを先鋒嚮導と位置づけていたこともわかる。このとき出された年貢半減令は、1月下旬には非公式に撤回されることになる・・・。(赤報隊については、いつか自分なりに整理したいと思っています) |
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(2007/5/15) |
注:鈴木家所蔵の書簡から解読しました。この書簡の解読については、西宮市郷土歴史資料館の江藤氏にご協力をいただきましたm(..)m。なお、句読点は管理人が任意につけました。 |
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「誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士」